『マグノリア』編集と長回しで繋ぐ偶然について

マグノリア(1999)
Magnolia

監督:ポール・トーマス・アンダーソン
出演:ジェレミー・ブラックマン、トム・クルーズ、フランク・T・J・マッキーetc

評価:100点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

映画に嵌り始めた中学生の頃に何気なく『マグノリア』を観て衝撃を受けた。どういう話かよく分からないのに、イメージ、イメージ、イメージの洪水による熱気に3時間流された。

「あれは何だったんだ?」

これは自分が映画を追い続ける原動力のひとつとなった。大人になり、映画に流れる方程式がわかり、自分でも動画を作るようになった今『マグノリア』を観ると、ポール・トーマス・アンダーソンの非凡さにまたしても衝撃を受けた。

『マグノリア』あらすじ

死の床で息絶えんとするテレビの大物プロデューサー、彼が昔捨てた息子、プロデューサーの若い妻、看護人、癌を宣告されたテレビのクイズ番組の司会者、彼を憎む娘、彼女に一目惚れする警官、番組でおなじみの天才少年、かつての天才少年……。ロサンゼルス、マグノリア・ストリート周辺に住む、一見何の繋がりもない12人が、不思議な糸に操られて大きな一つの物語に結び付けられていく。そして……“それ”は、起こる!

映画.comより引用

編集と長回しで繋ぐ偶然について

最初の10分でコンセプトと登場人物の説明がおこなわれる。捲し立てるような口調で、異なる領域の挿話を繋ぎ合わせる。1911年11月26日付ニューヨーク・ヘラルド紙に掲載された3人の男が絞首刑にされた話から始まり「偶然」といったコンセプトが浮かび上がる。偶然とは人間の行動が複雑に絡み合って形成されることが、自殺した男のエピソードを多角的に紐解くことで提示される。本来であれば、ビルの下に敷かれていたネットによって助かっていたのだが、夫婦喧嘩により暴発したショットガンが彼を撃ちぬく。夫婦の視点、自殺者の視点、それを客観的に繋げる報道の視点が絡み合い、そこに装填されるはずのなかった銃弾がどこで挿入されたのかといった過程が説明される。わずか数分でありながら無駄のない語りの導線と緻密な編集の塊は映画のことを知らない人が観ても圧倒されるものとなっている。

驚くべきことに、彼は編集だけでなく長回しにおいても複雑な人間関係の交通整理を行っており、クイズ少年スタンリーがテレビ局に入る場面は圧巻である。大雨の中、メイク室を目指すスタンリー。途中で父と別れ、カメラは彼を追跡していく。しかし、カメラはスタッフの女性の動きへ注目し始める。テレビ局の入り組んだ楽屋の先で再びスタンリーとカメラは合流する。人間の行動がバタフライ・エフェクトのように関連している様を離散/連続双方のイメージで捉えるため、20年以上経った今でも色褪せない物語となっている。

特にスタンリーのパートは、アイドルやファンダムについての研究が盛り上がりを魅せている昨今にとって重要な観点を与えてくれる。「天才少年」として周囲から期待の眼差しを向けられ、それに応えてきたが、番組中にお漏らしをしたことで押し付けられていた役割から逃れようと叫ぶ。渡部宏樹は「ファンたちの市民社会」にて、他者を利用して自己形成している点に着目して推し活や二次創作文化、精神的植民地主義などについて掘り下げていた。視聴者を含め、周囲の大人たちが自分たちの持っていないスキルを発揮し続けることによって自分の叶えられなかった欲望をスタンリーで満たしている。そんな彼がクイズに答えられなかったり、クイズから逃げようとすれば、欲望を満たす器として彼が使えず欲求不満へと陥る。だから大人たちはお漏らしをし羞恥に晒されているにもかかわらず、スタンリーに寄り添うことなく非難するのだ。

そして本作は人間の行動による偶然が物語的偶然によってクライマックスへと向かうことにより、フィクションにおける偶然の恣意性をメタ的に指摘するアイロニカルな終焉へと向かう。これを29歳で撮ってしまうポール・トーマス・アンダーソン、恐るべし。
※映画.comより画像引用