アレクサンダー大王(1980)
O MEGALEXANDROS
監督:テオ・アンゲロプロス
出演:オメロ・アントヌッティ、エヴァ・コタマニドゥ、グリゴリス・エバンゲラトスetc
評価:80点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
テオ・アンゲロプロス映画は大学時代までに一通り観ていたのですが、今こそ再び観るべきだろうと『アレクサンダー大王』を観た。これが面白かった。
『アレクサンダー大王』あらすじ
牢につながれたひとりの盗賊が手下の導きで脱獄する。漆黒の森の中、白馬の傍らで兜をかぶるとき、彼は“アレクサンダー大王”となった……ある義賊が故郷の小さな村で独裁者へと変貌していく姿をギリシャ歌劇の姿を借りて描きながら、ファシズムの実像に迫りその危険性を告発する、アンゲロプロス監督の壮大な歴史劇。黒澤明監督が感嘆した黒いマントに注目のヴェネチア映画祭金獅子賞受賞作。
ビザンチン様式の祝祭とテオ式群論
アレクサンダー大王の物語を通じて、社会主義国家の夢と終焉を描いた本作はテオ・アンゲロプロス監督がビザンチン様式のような作品だと語るように環が強調された一本である。
アテネの刑務所から逃亡した山賊がマケドニアの山地にある共産村へとやってくる。リーダーは自らを伝説的英雄「アレクサンダー大王」と名乗り、村人たちを束ねていく。村人たちは匿名的存在として扱われ、黒い服を纏った彼ら/彼女らが広場へと収斂していく様子をヤンチョー・ミクローシュさながらの長回しで描くことで、イデオロギーの形成を表象していく。アレクサンダー大王自体は劇中1度しか声を発さない。それも大衆への語り掛けではなく自問の声のみであること。そして、村人たちは歌でもって団結していく点が重要となってくる。
政治的流れは個々の市民によって生み出されている様が強調されているのだ。人々が同じベクトルを向くためには共通の認識が必要である。その共通認識として歌が存在する。ミサにおいて司祭が宗教でもって人々を牽引するのに対し、歌は村人たちから能動的に発せられる。自分たちの意志であるように思えるが、そのベクトルの先にはアレクサンダー大王いる。つまり、イデオロギーにおいて対象が存在し、群である大衆はその対象を時に崇拝し、時にギリシャの言葉における「テオファジー(神を食べる)」へと発展していくのだ。