『陪審員2番』落下の解剖学より落下を解剖している件

陪審員2番(2024)
Juror #2

監督:クリント・イーストウッド
出演:ニコラス・ホルト、トニ・コレット、J・K・シモンズ、クリス・メッシーナ、ガブリエル・バッソ、福山智可子etc

評価:60点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

クリント・イーストウッド最新作の法廷劇『陪審員2番』がU-NEXT配信スルーが決まるや否やSNSでは劇場公開を求める署名運動が行われた。近年、巨匠の作品も日本未公開や配信スルーになるケースが相次いでおり、スティーヴン・ソダーバーグやリチャード・リンクレイター作品が配信に来ていてもシネフィルですら反応していない悲しい状況が続いている。私は別に映画館至上主義者ではないし、ウィリアム・フリードキンの遺作法廷劇『The Caine Mutiny Court-Martial』が未だに公開されていないことを踏まえるとまだ良い方だと考えている。さて、実際に観てみたのだが、確かに本作は『十二人の怒れる男』のリメイク的な立ち位置の作品であり、法廷劇として観るべきではあるものの、イーストウッドとしてのアメリカ映画論の作品として見えて来るものがあった。今回はそこについて語っていく。

『陪審員2番』あらすじ

雨天の夜に車を運転中、何かをひいたようなので車から出て確認したが周囲に何も発見できなかったジャスティン・ケンプ。その後、ジャスティンは殺人罪に問われた男の裁判で陪審員をすることになるが、やがて彼は「事件当事者」としての強迫観念に苦みだす。

※U-NEXTより引用

落下の解剖学より落下を解剖している件

2024年を代表とする法廷劇に『落下の解剖学』がある。本作は「真実はいつもひとつ」への反証として素晴らしい作品であった一方で、落下の映画的機能に関しては効果的ではなかったように思える。階段の落下と転落死の結びつきが弱く、独特な家の構造を活用できているようには思えなかったからだ。一方、クリント・イーストウッドは匠の業により「落下」と運命を紐づけている。法廷の駐車場で検事がスマホを落とす。それをジャスティン・ケンプが拾う。このふたりを結び付けるのは、ある女性の落下死である。自分が轢き逃げをした、自分が9割型犯人でありながら、事件は容疑者を有罪とする方向へと転がっていく。陪審員は早く終わらせたいようで、多数決の圧が立ち込める中、さらなる議論を持ち掛け、自分が犯人だとバレる宙吊りのサスペンスの中で苦悩する。他の陪審員が彼の異変を指摘した時に、ケンプが気を紛らわせるために持っていたコインが落ちる。運命の落下がカメラに収められるのである。地味な法廷劇ですらアクションの余地を見出すイーストウッドの職人技に圧倒された。

また、本作の問題点でもあり興味深いポイントとして、「番号を無視する」ところにある。陪審員制度において、バイアスがかからないように「番号」で呼ぶ。映画も、各陪審員に番号が与えられており、互いに背景を明かさない、知らない状態、フラットな立場で議論を交わす。しかし、元刑事がバカにされたことをきっかけにバッヂを出して身元を明かしたあたりから、「医大生」「ボーイスカウトのマネージャー」といった実生活での役割を提示し、その役割での知見から事件を推理し始める。

これはイーストウッドとしてのアメリカ映画論だろう。アメリカ映画はスーパーヒーロー映画をはじめとし、社会から役割を与えられそれを受容する物語の型がある。どんなにフラットでいようとも、自分の中の役割が露わとなり、その役割を全うする。それがアメリカであると言いたげに、この作品では陪審員制度の「番号機能」を破壊しながら民主主義や正義について語られていくのである。そこにストッパーはいないので、その状況に対する批判的な演出が必要に感じた。また、検事の労働状況から司法の問題点を指摘する場面も表層的となってしまっており、正当なアメリカ映画でありながらも、そうであろうとするが故に粗が目立った一本であった。
※映画.comより引用