【第25回東京フィルメックス】『スリ』スリVSスリ

スリ(2008)
文雀/SPARROW

監督:ジョニー・トー
出演:サイモン・ヤム、ケリー・リン、ラム・カートン、ロー・ホイパン、ロー・ウィンチョウ、ケネス・チェン、ラム・シューetc

評価:100点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

第25回東京フィルメックスでジョニー・トーの『スリ』が上映された。映画祭サイトのヴィジュアルのカッコよさに惹かれて観たのだが、これが驚いた。ロベール・ブレッソンに対する小粋な挑戦であり、スリの手つきに特化したアクション映画だったのである。それでもってコメディに仕上がっている。「これぞ映画だ!」たるものを目の当たりにした。

『スリ』あらすじ

3人の仲間とともに香港の街で活動するスリのケイは、ミステリアスな美女チュンレイに出会い恋に落ちる。だが、チュンレイの虜になったのはケイだけではなく、3人の仲間たちもそれぞれ彼女に出会って魅せられていた。チュンレイが何かトラブルを抱えていることを知った4人は、そのトラブルを解決するため、彼女にとって重要な意味を持つ鍵を盗もうとする。だが、このために彼らは暗黒街の大物と対決する羽目になる……。ジョニー・トーが数年をかけて撮りあげた本作は、クラシックな趣をもった人情コメディとも言うべき快作だ。サイモン・ヤム演じるケイが古いカメラで香港の街を撮るシーンは極めてノスタルジックで、また雨の路上で4人が暗黒街の大物と”対決”するシーンではハリウッド・ミュージカルを思わせる演出が大きな効果をあげている。題名の「文雀」とは、香港で「スリ」を意味するスラングであるという。2008年のベルリン映画祭コンペティションで上映された。

※第25回東京フィルメックスより引用

スリVSスリ

ロベール・ブレッソン『スリ』における学習、練習、実践の関係性は視覚的説明のリズムによって、時制を変えながら提示される。ミシェルが新聞を用いたスリを習得する場面は、時系列順に語られる。メトロにて、彼がおじさんを目撃する。新聞を前にいる男の胸元に被せる。新聞をコンパクトにし読んでいるように見せかけて、財布を手元にスライドさせる器具として使用しサッと降りる。次の場面では、ミシェルが新聞と財布を使ってスリのメカニズムを見ていく。そして、いざ実践となる。ただ、傍観者から当事者に変わると緊迫感が増す。遠巻きのショットに対して近接のショットでスリが行われる現場を捉えると、目の前にいる男の鋭い眼差しが注がれる中でスリを行う必要があり、手汗握るものがあるのだ。言うは易し、行うは難しをショットの距離で表現する。ここにブレッソンの鋭さがあるといえよう。

場面が変わると、時制が変わる。横断歩道にて時計を盗む場面は実践から行われる。腰から下を捉えた状態でカメラは横断歩道を渡る人を収める。男同士が激突する。ガシっと腕を掴む。次に優しく、落としたシルクハットを拾い渡す。そして、去る。この一連の流れで時計を盗んだとミシェルは語る。そのメカニズムとして、机にくくりつけられた時計を例に解説する。ミシェルはスリの手引書を読み、検討しながら自分が実践できる手法を模索していることもわかる。新聞の場面とは正反対の時制で語られているのである。

この逆転の構造は、映画全体の構成に繋がってくる。本作は、二重に円環構造が張り巡らされている。

1.スリの手引書を読む者が自分のスリの手法を紙に記す
2.競馬場でスリを成功する者が競馬場のスリによって失敗する

後者においては、ユニークな逸脱がある。それは、ミシェルと観客の関係に「警察」といった第三者の眼差しが介入することである。ミシェルがスリの手法を我々に語り掛けるように物語が展開されるため、見る/見られるの関係はミシェル/観客の構図となる。しかし、ミシェルが新聞スリの男を目撃しているように、誰かがスリの決定的瞬間を目撃する可能性がそこにある。その誰かが現出する場面がクライマックスにあるのだ。

ロベール・ブレッソンは「スリ」という至近距離で発生する犯罪に流れる時間を学習から実践にかけて横たわる複数の時間を編み込むことで、厳格かつ独特なリズムを生み出していた。対してジョニー・トーは一見するとノンシャラン荒唐無稽な喜劇の中に匠の業を仕込むことでブレッソンに匹敵する厳格さに達したといえる。

それは、冒頭、編み物をする男、開けた部屋に文鳥が迷い込む。警戒にステップを踏みながらも、その瞬間を逃すまいとエイムし、ガシっと掴み外へ逃がすが、返ってきてしまう丁寧な映画的描写で既に現れている。それはつまり、フィルム・ノワールとして、プロとしての行動を徹しつつもターゲットは思うように動いてくれず、いつしか物語の主導権を握られてしまう様といえよう。

映画はプロフェッショナルによる連続スリを魅せるところを最初に持ってくる。食堂でダラダラと仲間内での会話をするも、いざストリートへ出るとハンターの目と変わる。ブレッソンはジッと見つめた長方形の空間の中に決定的瞬間が現れるのを待っているが、実際はスリの現場に遭遇するが正しい。カメラはふらふらと街を歩き、周囲をなんとなく見渡すのだが、その中で財布やらが奪われる瞬間が描かれる。それも連鎖的に発生していくのである。

そんなスリのプロたちが、街中で美女を、ターゲットを見つけるのだが、どうもうまくいかない。煙に巻かれてしまう。酔わせて時計を盗ろうにも、こちらが泥酔でノックアウトされて奪われてしまうのだ。

そんな、翳りある追跡劇の中でエレベーターが効果的に使われる。それも二度だ。一度目はエレベーターにファムファタールが乗り込んでくる。空気がヒリつく。おっさんはドギマギして後ろを振り返ることができない。その空気を置換する装置として天から風船が落ちてきて、胸と背中でサンドウィッチとなる。破裂と共におっさんは振り返る。彼女に敗れる。

別の場面では、逃げる女を追う男たちが、水槽運びの男たちに巻き込まれる流れでエレベーターへと吸い込まれる。水槽は男が抱えているため、下に隙間はある。そこに一味が滑り込むが、定員オーバーとなり蹴られる形で退場。その場には別のメンバー、そしてターゲットの女がいる。水槽を持つ男はニュートラルな存在として、どっちの味方へ転がるか分からない状態となり宙吊りのサスペンスが生まれるのである。

映画は複雑に追う/追われる、スリの攻防を描き、その中で我々は決定的瞬間を目撃する。それは単にモノが奪われたり、ターゲットが捕まるといった状況に留まらず、自転車が過剰積載でひしゃげる瞬間も捉えていたりする。

終盤には超絶スローモーション、雨天の中、パスポートを取り合うスリ戦争が描かれる。明らかに完璧に画面を制御できるアニメの方が適している間合いの取り合いであり、複雑な動きではあるのだが、ジョニー・トーの手にかかれば一秒たりとも乱れたショットが存在しないものとなる。画はゆっくり動いているはずにもかかわらず、カンフー映画さながらの高速アクションがここに現出するのである。これには私の心もスラれてしまった。