【ネタバレ】『二つの季節しかない村』その教師、クズ男につき

二つの季節しかない村(2023)
原題:Kuru Otlar Ustune
英題:About Dry Grasses

監督:ヌリ・ビルゲ・ジェイラン
出演:デニズ・ジェリオウル、メルヴェ・ディズダル、ムサブ・エキチ、エジェ・バージetc

評価:90点


おはようございます、チェ・ブンブンです。

第76回カンヌ国際映画祭にて女優賞(メルベ・ディズダル)を受賞した『二つの季節しかない村』を応用情報技術者試験終わりに観てきた。正直、5時間試験と向き合った後で3時間以上に及ぶ骨太会話劇に耐えられるのかと不安であったが杞憂であった。日本でもちょくちょく見かける加害者の深淵なる心理に迫り批判した作品であった。本作は中盤でユニークなギミックが用いられているので、そこを踏まえたネタバレ批評を書いていく。

『二つの季節しかない村』あらすじ

「雪の轍」で第67回カンヌ国際映画祭パルムドールを受賞したトルコの名匠ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督が、トルコ・アナトリア東部に広がる荘厳な自然の大きさと、自我に縛られた人間の悲しいほどの小ささを大胆に対比させて描いたドラマ。

冬が長く雪深いトルコ東部の村。プライドの高い美術教師サメットはこの村を忌み嫌っているが、村人たちからは尊敬され、女生徒セヴィムからも慕われていた。ところがある日、サメットは同僚ケナンとともに、セヴィムたちから身に覚えのない“不適切な接触”を告発されてしまう。そんな中、サメットは美しい義足の英語教師ヌライと知り合う。

主人公サメット役に「シレンズ・コール」のデニズ・ジェリオウル。2023年・第76回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、ヌライ役のメルベ・ディズダルがトルコ人として初めて女優賞を受賞した。

映画.comより引用

その教師、クズ男につき

テレビもねぇ、ラジオもねぇ、車もそれほど走ってねぇ、おらイスタンブールさいぐだと考えている美術教師サメットが新学期に授業を始めるところから始める。「親には言うんじゃねぇよ、俺が叩いたとか蹴ったとか」といきなり体罰の気配を感じる。生徒の声からも、特定の生徒を贔屓にしている厭な教師であることがうかがえる。そんなサメットは職員室ではなく、物置小屋のような場所を拠点にしているのだが、ある日、流出したセヴィムのラブレターと思われるものを入手。この部屋でニヤつく顔を見せないようにしながら読み始める。そこへセヴィムが現れ「手紙を返して」と懇願されるのだが、「俺は知らないよ」としらばっくれる。執拗で陰惨な問答が行われる。

これは因果応報のように校長室へと返ってくる。別の日に職員室へ呼び出されたサメットは生徒から不適切な接触があったと告発されていると言われる。「誰だ?」とキレだすのだが、コンプライアンスがしっかりしているため、関係者は一切告発者の名を発しない。一方で、この事件は内々で処理されることとなる。表沙汰にはならなかったものの、村で噂をされるかもしれないという被害妄想と自己弁護に脳が支配され、心の拠り所を探す中で義足の女ヌライをターゲットにする。

本作は、加害者である男がその加害性を否定するために心の避暑地を見つけようとする醜悪さを辛辣に描いている。カメラはサメットの会話を捉え、その端々にプライドの高さや冷笑を見出している。例えば、ヌライとの会食の場面で、国際平和について語る彼女に対して「世界全てを救うのは無理だ」と冷笑し、その振る舞いに対し詰められると、なんとかマンスプレイニングを成功させようと詭弁を捲し立てながら勝利し、肉体関係へと持ち込んでいく。彼の利己的な側面はその前に生徒に「勉強なんてしたって無駄だ、お前らはブルジョワのためにジャガイモやテンサイを育てることしかできないからな」と教師として最悪な呪いの言葉をぶちまけている。生徒に対するむき出しの暴力性に対して、冷静さを装いつつもヌライをコントロールしようとする展開にゾッとさせられる。

ここで面白い技法が使われている。ヌライとの対話が終わると、サメットは外に出るのだが、これが映画のセットなのである。突然メタ的な演出が始まり、サメットは更衣室の鏡を見つめ、何事もなかったかのように本編に戻る。これは、他者にどうみせたいかと本音の側面を強調した場面であろう。加害者ではない博識な存在として認められたい思い、それがかなわなかった時の憤りが本編で提示される。そして、彼は「自分が加害者として観られたらどうしよう」と思っているのだが、それは本編の外側の安全圏に保管されているのである。

この演出を肉付けするために、『二つの季節しかない村』では写真や肖像画の反復が使用されている。サメットが写真を撮る場面では、いくつかの写真が並べられる演出となっているのだが、これがハイパーリアリズムアートのような質感を持っている。

この正体は終盤で、世界遺産ネムルト・ダーにて自慰ポエムを独白しながら山を登り、回想する場面で明らかとなる。「セヴィム、いろいろあったが、お前はいい女だ」と語りはじめるのである。内なる他者として女学生を召喚し、疑似的に許しを与える凶悪さがある。だが、それは妄想の中で完結している訳ではなく、すでにヌライを避雷針にすることで達成されているのだ。ハイパーリアリズムにおける虚構と現実の交わり具合が、内なる他者の現実への浸食とそれによる加害性へと繋がっており興味深いものとなっていた。

ちなみに、この場面でネムルト・ダーへ行くことは重要な意味を持っている。ネムルト・ダーはコンマゲネ王国のアンティオコス1世がネムルト山の山頂に自分を埋葬することで神聖化しようとした遺跡である。そのため、サメットがネムルト山を登ることは、自分は悪くない存在であることを昇華させていく行為なのである。

最後の最後までどうしようもなくクズで、しかもその振る舞いが生々しくて強烈な一本であった。映画業界だとラース・フォン・トリアーが似たようなことをしているなと思ったのであった。
※映画.comより画像引用

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