『悪魔の陽の下に』『田舎司祭の日記』feat.モーリス・ピアラ

悪魔の陽の下に(1987)
SOUS LE SOLEIL DE SATAN

監督:モーリス・ピアラ
出演:ジェラール・ドパルデュー、サンドリーヌ・ボネール

評価:75点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

モーリス・ピアラがジョルジュ・ベルナノスの小説を映画化しパルム・ドールを受賞した作品。ロベール・ブレッソンの『田舎司祭の日記』や『少女ムシェット』と同じ原作者のジョルジュ・ベルナノスの初期作を映画化したものであり、ブレッソンの両作との違いを楽しめる作品となっている。久しぶりに観て、まず面白く感じた。

『悪魔の陽の下に』あらすじ

1987年・第40回カンヌ国際映画祭パルムドール受賞作品。ジェラール・ドパルデュー扮する敬虔な神父の行動を通して、人間の根底に潜む苦悩を描き出す。自分が真に聖職者であるのか苦悩するドニサンは、時に自らに過剰な苦行を課し、信仰心を試しながら生きていた。ある日、北フランスの田舎道を歩いていたドニサンは、親切な馬商人に出会い、旅慣れない道中を案内してもらうが、商人は悪魔の化けた姿だった。悪魔の仕業により他人の心が見えるようになってしまったドニサンは、恋人を殺してしまい絶望の淵にいた少女ムシェットと出会い、彼女を救おうとするが……。88年、日本初公開。2013年、特集上映「フランス映画の知られざる巨匠 モーリス・ピアラ」で再上映。

映画.comより引用

『田舎司祭の日記』feat.モーリス・ピアラ

ロベール・ブレッソンはアクションを引き起こす肉体を軸としたストーリーテリングの作家といえる。『田舎司祭の日記』では、日記を書く行為によって過去が呼び起されていく時間軸のズレが思索の可視化へと繋がる作品であった。『少女ムシェット』も石を投げるなどといったアクションにより物語が推進していくイメージがある。

一方でモーリス・ピアラの場合、アクション自体を漫画のコマのように並べていくアプローチが一貫して取られている気がする。『私たちは一緒に年を取ることはない』が顕著なように過程を飛ばし、アクションとアクションを結ぶことでドライな空気を演出するといったイメージだ。『ヴァン・ゴッホ』では売れない晩年のゴッホの諦観を表現するために、絵を描くプロセスを切り詰めている。例えば、草原で絵を描いているところに人が通りかかる。次のショットではその人の髪形を掴み、次の瞬間に絵が完成。「モデル代は支払えない」と渡すのだ。本来あるはずの、今着手している作業を中断し、彼を描くまでのプロセスが省略されている。また、滞在先の女をモデルに描く場面では、絵をなかなか見せず、モデルを「モデル」として見るゴッホの眼差し、人間的好奇心(あるいは恋情)として彼に向ける彼女の眼差しの距離感のすれ違いを中心に捉えていく。アーティストの映画は有名作品に注目が置かれがちだが、当時全くゴッホは売れていなかったので、そこらへんに放置されている画のように乱雑にアクションを配置することでゴッホの全体像を捉えた。

閑話休題、『悪魔の陽の下に』では、自省により内なる闇へと蝕まれていく神父が、道中で悪魔と出会い感化され、殺人を犯したムシェットを救おうとするが自殺されてしまい、心の拠り所に苦悩するといった物語となっている。『田舎司祭の日記』の場合、ベクトルが終始自分へ向いていたのに対し、本作は日記から一定の距離を置いているので自分に向いたベクトルを他者へと向かわせることで内なるモヤモヤを発散させようとする運動へと置換させていく。

ここで注目なのは悪魔と出会う場面、青々とした空間の中を歩いていると悪魔が隣を歩いており、唆す。その後、現実へと戻り少女ムシェットと出会うのだが、時系列を操作することなく、感情の地続きであることが強調されていく。内なる闇に取り込まれ、自傷行為を行っていた神父は、ムシェットを前に自分と似たものを感じ、救おうとするのだが自殺されてしまう。自殺のプロセスは描かれず、少しロングショットで死亡したムシェットへ歩み寄る神父の姿が捉えられる。

本作が面白いのは、結局神父は奇跡を起こすのだが、痛みは変わらない。聖職の世界では自分を罰するは何も生まず、自己犠牲をするのであれば他者に与えるべきと締めくくっているところにあるだろう。

意外と日本における「セカイ系」分析の副教材として本作が使えるのかもしれない。

created by Rinker
紀伊國屋書店