囚われの女(2000)
La Captive
監督:シャンタル・アケルマン
出演:スタニスラス・メラール、シルヴィー・テステュー、オリヴィア・ボナミーetc
評価:100点
アンスティチュフランセSabine Lancelin特集でシャンタル・アケルマン激レア映画『囚われの女』を観た。今回の上映は、デジタル修復版で日本語字幕が間に合わなかったらしく、トランシーバー越しに生通訳が付くモダン活弁士上映でした。
《吹き替え》ではなく《通訳》なので、台詞は超絶ドライなのだが、その抑圧したトーンで「股の湿りの匂いが好き」とか「興奮する」なんてことを言うので、爆笑コメディになっていました。また、前半は男性が、後半は女性モダン活弁士が通訳するのですが、後者の読み上げる台詞の余韻が官能的過ぎてドキドキしながら観ました。
『囚われの女』あらすじ
マルセル・プルースト『失われたときを求めて』の第五篇「囚われの女」をアケルマンの自由な発想で映画化。パリの豪奢な邸宅で恋人アリアンヌと暮らすシモンは、彼女を求める激しい思いから、彼女を尾行する。そして彼女が女性と愛し合っているという妄想に取り憑かれる。ヒッチコックの『めまい』をも想起させる傑作の一本でその年の「カイエ・デュ・シネマ」ベストテンで2位に選ばれた。「『囚われの女』は他性についての偉大な映画だ。」オリヴィエ・ペール
※アンスティチュ・フランセより引用
囚われているのは君だ!
マルセル・プルーストのモンスター作品『失われた時を求めて』はフォルカー・シュレンドルフやラウル・ルイスによって映画化されているが、どちらも原作の持つデカダンス性や記憶の移ろいに力点を置いていた。
しかし、シャンタル・アケルマンは違う。《現代に持ってくる》という表面的な差別化に留まることなく、鋭い説を持って来て、理論的に脱構築を図った。
《囚われの女というが、囚われていたのは男の方では?》
フィルムの荒々しい映像が画面を覆う。ノスタルジックな情景、キャピキャピと燥ぐ女たち。
カメラは《映写機を持った男》にして、主人公のシモンに向けられる。
私は、、、
私は、、、
私は、、、本当に彼女を愛している
とスクリーンを舐めるように観るシモンに本作のテーマがある。
すぐそこにあるのに掴めないものだ。男はアリアンヌに囚われている。彼女を尾行し、誰かが彼女を奪わないか監視している。彼は彼女と同居している。しかし、一向に距離感が掴めない。風呂で赤裸々に「湿った股の匂い」について議論をすれど、裸と裸の接触は鏡越しに行われる。
夜の営みも服を着たままだ。
そして、会話は常に食い違い、歌のレッスンの日の認識も違えば、夜の遊びにも意気投合は存在しない。「僕は反対の意見だね」が無数に並べられる。
可哀想なことに彼は《アリアンヌの為》と思っているが、彼女には通じていない。完全に独りよがりだ。カルメンのように主導権を握り、運転すら彼女が行う。シモンの頭上でオペラを囀る。シモンには何一つハンドルを握る場所はないのに彼は気付かないのだ。
全てを知りたい男
知らないことに魅力を感じる女
の不毛に続く大地の痛々しさと滑稽さは、『失われた時を求めて』における思考実験の要素、デカダンス性を継承しながらも、『ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン』にも通じる《覗き》の面白さ、抑圧された女性の解放というアケルマンの色をキャンバスに叩きつけていた。
このユニークで、村上春樹か?ギャルゲーか?と言わんばかりの世界観に大満足しました。
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