王国(あるいはその家について) 150分バージョン(2018)
監督:草野なつか
評価:85点
おはようございます、チェ・ブンブンです。恵比寿映像祭というものに行ってきた。昨年末から、チラホラ草野なつかの『王国(あるいはその家について)』 が凄いという噂を聞いていた。奇遇にも、観る機会が目の前にありました。本当は『THE GUILTY/ギルティ』と迷ったのだが、これを逃すと後悔しそうだったので、観てきました。そうしたら大大大正解。非常に歪ながらもブンブンにクリーンヒットした傑作でありました。今回は、ネタバレありで本作の迷宮に迫っていこうと思います!
『王国(あるいはその家について)』あらすじ
演出による俳優の身体の変化に着目した作品。脚本の読み合わせやリハーサルを通じ俳優が役を獲得する過程を、同場面の別パターンまたは別カットを繰り返す映像により捉える。ドキュメンタリーと劇で交互に語りながら友人や家族という身近なテーマを用い人間の心情に迫る。2017年発表64分版を再編集し、新たな映像言語をもって試みの全貌を伝える。
※恵比寿映像祭サイトより引用
観客の脳裏に映画が作られる
本作は、映画の原石を観客に見せつけるタイプの作品です。何度も繰り返されるリハーサル。3歩進んで2歩下がり遅々として物語は進まない。同じ場面を別の角度から撮り、その僅かな変化に観客は物語を見出そうとする本作はまるで『ニーチェの馬』を思わせる。そして、観る者の脳裏に強烈なヴィジュアルが浮き上がるその様はクロード・ランズマンのドキュメンタリーやデレク・ジャーマンの『BLUE』を彷彿とさせられます。本作は、執拗に繰り返されるリハーサルを通じて、観客の脳裏に王国を無理矢理築かせ、2時間半かけて構築される王国の姿に圧倒されるそういう作品なのだ。実に映像祭らしい実験映画だ。最強のマクガフィン、《グロッケン叩きのマッキー》
この作品は、幼稚園にあがる前の娘を持つ夫婦と、そこに入り込む異物としての妻の友人により崩壊していく物語が展開されます。そのフラグメント(=かけら)が反復されるわけだが、その中でも劇中10回以上に渡り反復されるのが《グロッケン叩きのマッキー》のシーンである。夫婦と妻の友人が食卓を囲って、過去を語る場面。妻と友人が学生時代を振り返る。
友人「マッキーって《グロッケン叩きのマッキー》って呼ばれていたよね」
妻「えっ《マッキー・ザ・グロッケン》じゃなかったっけ?」
友人「そうだったかも?、でもグロッケン叩きの…って聞いたことあるかも。」
妻「あれっどっちだっけ?」
夫「どっちでもええわ!」
観客は、そこにいない登場人物「マッキー」の強烈な印象が脳裏に焼きつく。そしてマッキーの会話を通じて、微妙に関係が崩れ気まずくなっていく様子に魂が揺さぶられます。あまりに印象的なエピソードだったので、草野なつか監督に質問してみました。どうしてこのシーンを強調させたのかについて。
そうしたら驚きの事実が発覚しました。
この作品は、昨年発表した64分版の再編集なのだが、64分版にはこのエピソードはほとんど盛り込まれていなかったとのこと。シーン自体も長いので、中途半端に入れるくらいなら切ってしまおうという考えだったのだ。そして150分版は、このシーンを入れることで3人が最も幸せだった時間を強調させることができると仰っていました。
なんてこった、王国の核が64分版には欠落しているなんて!
歪な意図
実はこの映画は草野なつかの意図する作品としては失敗している作品と捉えることができます。草野なつか監督は、演出による役者の身体の変化を捉えることを目的としているのだが、映画を観てもその変化を捉えることが難しくなっています。また、Q&Aの話を聞いていると、演出に対する拘りが妙に抜けているところがあり、撮影の意図も全てカメラマンに丸投げしていたり、そもそも本作で描かれるリハーサルが映画というよりか演劇の作り方をしているのでリアリティがなかったりします。なので、目的を達成したか否かで観たら、完全に失敗しているといえます。草野なつかも映画を撮るというよりも、アート表現の手法として映画を選択しており、映画的な部分が欠落しているといえます。
しかし、それでもブンブンは草野なつかのこの実験精神に感動を覚えました。日本の映画界、特にインディーズ映画は貧困をテーマにしたら良いと考えている節があり、実際に評価される作品も大抵そうである。その中で、しっかり自分の表現と向かい合い、映画技術探求に努めたという彼女の精神は応援したいと思いました。ってことで2019年重要作品として『王国(あるいはその家について)』を挙げさせていただきます。
コメントを残す