『みんな、おしゃべり!』コミュニケーションの本質は記号と意味の繋がりだ

みんな、おしゃべり!(2025)

監督:河合健
出演:⻑澤樹、⽑塚和義、福⽥凰希、ユードゥルム・フラット、Murat Çiçek、那須英彰、今井彰人etc

評価:100点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

東京国際映画祭の時から話題となっていた『みんな、おしゃべり!』。上映時間の長さとタイミングの悪さから2025年中に観ることができず、年明けの鑑賞となった。満席近く埋まるユーロスペースで観たのだが、劇場から笑いが絶えずエンドロールで自然と拍手が巻き起こる盛り上がりとなった。私自身、かなり油断していた。この手の作品は問題提起が先行する故に映画的なショットや作劇がおざなりとなるケースが多いのだが、極めて映画的なすれ違いによる物語の推進、ゴダールを思わせるバキバキにキマッたショットの挿入を、インディーズ映画ならではの庶民的ギャグとの反復横跳びの中で実現させる離れ業をやっていたのだ。これは襟を正してがっつり批評したい次第である。

『みんな、おしゃべり!』あらすじ

日本手話とクルド語を題材に、ろう者の日本人家族とクルド人一家が繰り広げる誇り高き小競り合いの行方を描いたコメディ。

古賀夏海は電器店を営むろう者の父と弟と暮らしているが、ある日、一家は同じ町に暮らすクルド人家族と些細なすれ違いから対立してしまう。両者の通訳として駆り出されたのは聴者である夏海と、クルド人一家の中で唯一日本語を話せるヒワだった。お互いの家族の通訳をするなかで、夏海とヒワの間には次第に信頼関係が生まれるが、両家の対立は深まるばかり。そんなある日、夏海の弟・駿が描いた謎の文字が、町を巻き込む事態へと発展してしまう。

「愛のゆくえ」の長澤樹が主人公・夏海を演じ、東京・西日暮里でラーメン店を営むろう者の毛塚和義が夏海の父役で演技に初挑戦。テレビドラマ「デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士」の那須英彰と「ぼくが生きてる、ふたつの世界」の今井彰人が父の友人役、「笑いのカイブツ」の板橋駿谷が町おこしを計画する団体職員役、「ハケンアニメ!」の小野花梨がろう学校の先生役で共演。「なんのちゃんの第二次世界大戦」などの監督作で知られ、自身もCODA(ろう者の親を持つ聴者の子ども)である河合健がメガホンをとった。

映画.comより引用

コミュニケーションの本質は記号と意味の繋がりだ

ろう者が営む電器屋。話が通じないと、来店する客は気まずそうに逃げていき、常連はろう者コミュニティとなっている。健常者である娘の夏海がフォローしつつ、細々と商売をしている。そこへ胡散臭い広告屋が移民受け入れによる地域活性化のプロモーションとして、障がい者が営む店を取材することになる。この状況に困惑している中、店にやってきたクルド人とある誤解によって衝突し、すれ違いがすれ違いを呼んで町を巻き込む騒動へと発展していく。

本作は、随所に字幕が挿入されている。それは手話の内容を伝える目的では使用されていない。クルド人が話す言葉はクルド語で表示される。英語を母語とする者の手話は英語字幕で表示されるのだ。我々は母語で会話をする。母語ではない言語の場合、記号と意味が分離した状態となる。しかし、そこに明確な意味は存在し、その記号を受容する者だけがそれを理解し対話することができる。つまり、本作では字幕を挿入することによって、我々の世界に多く漂っている記号としての言語、わかっているようでわかっていない状況を意識させる使われ方がされているのだ。まずこの点に惹き込まれる。

そして、映画はろう者とクルド人、全く言葉も文化も異なる者たちがすれ違いによって対立するところから議論を始める。まず、双方の言語がわかる者が代表として「日本語」を仲介言語とし、翻訳と仲裁を行う。クルド人サイドの翻訳者ヒワは正確に翻訳することを意識している。一方で夏海は相手のことを考え、角が立つようなことは翻訳して伝えないようにしている。彼女に対してヒワは「なんで言わないの?」と疑問を投げかける。ただ、彼自身はクルド人の揉め事がくだらないと考えており敵意はなく、ただストレートに伝えようとしているだけだったりする。翻訳者レベルでも考えの違いがあり、夏海はモヤモヤを抱えることとなる。

そして自体は厄介なことに広告会社の男が余計な口出しをし、自分が動かしたいようにナラティブを形成し始める。彼は、プロジェクトの成功が目的であり、薄っぺらい「分かった気になった態度」を前面に出しながら、プロジェクトが成功するならいかなる手でも講じる。だから、都合が悪くなればクルド人をいなかったことにしてしまうし、息子が作った独自言語をクルド語と誤認し、勝手な推察で陰謀論へと持ち込もうとするのだ。

ユネスコは第二次世界大戦で人類が犯した虐殺と破壊の原因は他の文化に対する無理解にあるとし、世界遺産条約では「教育・広報」の項目を設け、いかにして世界に文化を伝えていくかを考える重要性を訴えている。一方で、広報は諸刃の剣であり、本作の彼のようにナラティブ戦の兵器として悪用されるケースもある。ユネスコの理念は壮大で国際規模なので市井の人々にとってはイメージし辛いものがあるが、『みんな、おしゃべり!』ではミクロな世界に見事ユネスコの理念を反映させたといえよう。

そして、本作は言語学の観点から面白いことをしている。ソシュールは言語をシニフィアンとシニフィエに分けて定義した。それはつまり、文字や音声といった記号とそれが指し示している内容である。そして言語にはそれぞれ体系が存在するので一見同じに見える単語でも定義が異なっていたりして、完全な翻訳はできない。それを踏まえて本作を観る。日本語手話、英語手話、日本語、クルド語、トルコ語、アラビア語、中国語とたくさんの言語が登場する。そしてそれぞれが話者同士で群を形成しており、その中ではコミュニケーションは成立する。しかし、別の言語同士になるとシニフィアンは提示されても、それを指し示すシニフィエがわからないので誤解が生じる。しかし、裏を返せばシニフィアンとシニフィエとの同期が取れれば、これらの言語でなくてもコミュニケーションは取れる。本作が凄いのは、最終的に彼ら/彼女らが属す言語から離れたところで親密な関係を結ぶことでこのようなコミュニケーションの本質を捉えることに成功している点にある。

たとえば、ろう者の少年はアラビア語のメモを拾ったことをきっかけに自由帳に文字を書き続ける。学校の先生や大人たちはアラビア語やクルド語だと勘違いするが、それは人工言語である。彼はこの言語を使ってクラスメイトとコミュニケーションを取り始めるのだ。また電器屋の店長も、明瞭に喋れも書けもしない老人がやってきた際、最初は夏海と共に追い払ってしまうのだが、二度目の訪問の時には辛抱強くボディランゲージで対話を行っていく。それはクルド人との会話にも応用されていく。自分の母語から離れたところで言語を脱構築していき、それでもって平和をもたらす。そのプロセスを知ることで、どんな相手に対してもコミュニケーションが取れるし問題は解決される。せめて映画の中でもなされるべき綺麗ごとが美しく眩く光る一本であった。そして、この辛抱強いコミュニケーションのために必要な2時間半であった。