『PEAK END』スマホ時代に映画で日記は書けるのか?

PEAK END(2025)

監督:シン・チェリン
出演:シン・チェリン、伊丹そらetc

評価:75点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

先日、映画仲間から「第47回ぴあフィルムフェスティバル2025で上映された『PEAK END』が凄いぞ、U-NEXTにも来ているぞ」と連絡があった。あまり、日本の自主製作映画を追えていないのでこれを機に観てみた。なるほど、これは攻めた映画だと思った。

『PEAK END』あらすじ

ソウルから京都にきたリン、沖縄から京都にきたそら。大学で映画を志す2人はお互いを撮り合うことで対話を重ねる。ジャムサンドを空に飛ばしたい、カメラを万引きしたい、沖縄でそらのルーツを辿りたい、沢山のやりたいことをフィルムに焼き付ける2人の対話は、主観と客観を曖昧にしながらお互いのアイデンティティを探究して行く。

国立映画アーカイブより引用

スマホ時代に映画で日記は書けるのか?

ソウルから京都にきたリン、沖縄から京都にきたそらが映画学校で通う中の悶々とした新城を互いに撮りあうことで掬い上げようとする内容。これだけ聞くと、映画学校の人が撮りがちなテーマであり陳腐に思える。実際、録音の悪さもあり、平凡な作品に陥る崖っぷちな作品だ。しかし、この撮影技法が興味深い。スマホ時代だからこそ、自分を撮るとは何かを見つめ直し、スマホ撮影的なものを排除しているのだ。ここで言うスマホ撮影的なものとは「不特定多数へ」といったベクトルを有した撮影である。SNSが普及したことで、人々は自分の日常を余すことなく撮影するようになった。その撮影はSNSに挙げることを前提としており、ありのままの自分というよりかは自分がどのように見られたいのかを重視し加工された自己を提示するところにある。面白さを求めて撮影される映像もバズを狙う、つまり不特定多数に向けたショットとなりがちである。その点、本作は不特定多数性が見えない、あくまでリン→そら/そら→リンへのベクトルを有している。スペクタクル的なショットもふたりの面白さを身内で共有するような質感となっている。顕著なのは、ジャムサンドに風船を括りつけて宙へ飛ばす場面である。YouTubeの企画動画のような他人に向けた前座はない。バズを狙った偶発的発見といったものもない。意図したアクションとその結果だけを撮るのである。それはどこか心地良いものがある。恐らく、この感覚はYouTubeやTikTokでは観られないようなイメージが提示されたことによる感覚に近いであろう。

このような演出を観ると、京都芸術大学 映画学科ではどのような映画を授業で習っていたのかが気になる。インタビューの部分は明らかにジャン・ルーシュ『ある夏の記録』だが、ひょっとすると『デイヴィッド・ホルツマンの日記』なども参考にしているような気がする。とりあえず、シン・チェリン&伊丹そらコンビのことは覚えておこう。