Blue Heron(2025)
監督:Sophy Romvari
出演:Eylul Guven,Iringó Réti,Ádám Tompa etc
評価:70点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
最近、カナダ映画の勢いが凄まじい。とりあえず話題のカナダ映画は押さえておく必要があるのだが、Sophy Romvariの長編一作目が特に注目ということで観てみた。確かに、これは演出に興味深いものがあった。
『Blue Heron』あらすじ
In the late 1990s, a family of six settles into their new home on Vancouver Island, as internal dynamics are slowly revealed through the experiences of the youngest child, Sasha. Their fresh start is interrupted by the increasingly dangerous behavior of Jeremy, the family’s oldest child.
訳:1990年代後半、6人家族がバンクーバー島の新居に引っ越してきた。末っ子のサーシャの体験を通して、家族内の力関係が徐々に明らかになっていく。しかし、彼らの新たなスタートは、長男のジェレミーのますます危険な行動によって中断される。
ジャンヌ・ディエルマンの直接引用について
バンクーバーに引っ越してきた家族の肖像。いわゆる中産階級で幸せそうな家族だが、問題児であるジェレミーの行動に疲弊していく家族の翳りが何気ない生活の断片から見えてくる。話としては、思った以上に陳腐な気がしたのだが、本作はその演出の異質さに注目である。粗削りでありながら今後洗練されていく気配を感じた。
まず、大胆にもシャンタル・アケルマン『ジャンヌ・ディエルマン』におけるジャガイモを剥く母親の構図を完全に再現する場面がある。ジャガイモを剥く際の退屈な、でも時として力が入る。ケガするかもしれない独特な緊迫感を通じて日常が非日常でなくなってしまう暴力が露呈するか否かの宙吊りを表現している。それを娘が見守ることにより、娘のケア要員の側面、束の間の親密な場が強調される。
そして後半には2つ印象深い場面がある。まず、部屋の中で家族が語り合う場面。一見するとスプリットスクリーンに思えるのだが、空間は繋がっている。その中で会話をしていき、その後半では空間を超えた動きをする。擬似スプリットスクリーンの効果を感じさせる場面となっている。また、時と共に癒える感情を表現するためにブライアン・イーノの「An Ending」が用いられているのも意外性があってよかった。