『DREAMS』恋愛はグロテスクだがその本質にあるグロテスクさは受容しなければならない

DREAMS(2025)

監督:ダーグ・ヨハン・ハウゲルード
出演:エラ・オーヴァービー、セロメ・エムネトゥ、アネ・ダール・トルプ、アンネ・マリット・ヤコブセンetc

評価:100点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

Bunkamuraル・シネマ渋谷宮下にて開催中の「オスロ、3つの愛の風景」にて3本観て来た。『SEX』『LOVE』は昨年に鑑賞しているのだが、あまりにも理論と英語が難しすぎて、凄い気配を感じるもののその芯に到達することができず、しょうもないレビューをネットに晒すこととなった。今回、再鑑賞してダーグ・ヨハン・ハウゲルードの高度な理論と極めて小説的でありながら、それをそれぞれ異なる形でイメージに落とし込む手腕に圧倒されたわけだが、最終章である『DREAMS』はそれを凌駕するものであった。2025年のベルリン国際映画祭コンペティション部門は不作であり、本作が最高賞を獲るのは必然に感じた以上に物書きとしてダーグ・ヨハン・ハウゲルード監督の言葉の編み込みの凄まじさに膝から崩れ落ちそうになった。筆を折られたような衝撃を受けたのであった。まずは本作を配給し、日本語字幕付きで観られる環境を用意したビターズ・エンドに感謝である。

『DREAMS』あらすじ

ベストセラー作家や図書館司書という経歴を持つノルウェーのダーグ・ヨハン・ハウゲルード監督が、女性教師に恋をした少女の赤裸々な手記をめぐり、異なる価値観を持つ3世代の女性たちの物語を描いたドラマ。ノルウェーの首都オスロを舞台に「恋」「愛」「性」にまつわる3つの風景をつづる、ハウゲルード監督によるトリロジーの第3作で、2025年・第75回ベルリン国際映画祭にて、ノルウェー映画として初めて最高賞の金熊賞を受賞した。

女性教師のヨハンナに初めての恋をした17歳のヨハンネは、恋焦がれる思いや高揚感を手記にしたためる。自らの気持ちを誰かに共有しようと詩人の祖母に手記を見せるヨハンナだったが、事態はそこから思わぬ方向へと展開してしまう。祖母は孫の手記に自らの女性としての戦いの歴史を思い起こし、母は“同性愛の目覚めを記したフェミニズム小説”として現代的な価値観にあてはめようとする。

2025年9月、特集上映「オスロ、3つの愛の風景」にて、トリロジーの前2作「SEX」「LOVE」とともに劇場公開。

映画.comより引用

恋愛はグロテスクだがその本質にあるグロテスクさは受容しなければならない

17歳のヨハンネは女性教師ヨハンナに恋をする。ある日を境にヨハンナの家に入り浸るようになる。一緒に編み物をし、親密な関係になるが、それは終わりを迎える。1年後、この失恋を言葉にしようとヨハンネは手記を作成。詩人である祖母に読ませるのだが、その存在を母に知られてしまう。そして母はフェミニズム小説としてヨハンネの小説を売り出そうとする。

恋愛はグロテスクである。一方的に好意の眼差しを向ける「恋」に対して、対象との対話を通じて親密に生まれる「愛」。そのプロセスは当事者間のものであるにもかかわらず、恋愛はいつ時も第三者の干渉を受ける。通常は人との適切な距離感を保っているはずの友人も、家族も、恋愛となれば土足で踏み滲むのである。故に恋愛はグロテスクだと私は考えている。

ヨハンネは繊細な性格であり、ヨハンナに対する強烈な恋情と失恋を内に留めておくことができない。出会ったときに感じる恍惚、友だちにも家族にも言えず内に押し込める中で生じる苦しい熱。彼女の家でのひと時、延々に続けばいいと思いつつ終焉、そして彼女から垣間見える翳りとそれに対してどうしようもできぬもどかしさ。これらの記憶は忘れられない、忘れてはいけない、でも抱えきれない。だから手記といった形で外部化する。そして、心許せる祖母にみせるのだが、彼女が母にも共有したことでヨハンネの聖域は踏みにじられてしまう。

ダーグ・ヨハン・ハウゲルードの凄いところは通常、この展開であれば激しい口論の応酬となるところを徹底してニュートラルな関係性を保持し続ける点にある。これは劇中で発せられるセリフ「言論の自由は死に際に手を取ってはくれないこと」、そして『SEX』『LOVE』での議論を踏まえることで極めて重要な観点であることがわかってくる。ダーグ・ヨハン・ハウゲルードは一貫して「ゲイ」といった言葉だけでなく「同性愛」といった言葉を忌避しながらマイノリティの恋情を言葉へ落とし込もうとしている。小説家として言葉の重みを知っているからであろう。単語は特定の状況を示すのに便利である。ゼロから思索して理論化するには時間がかかる。手っ取り早く専門用語でラベリングすることで問題は解決されると思われがちである。しかし、人間はそう単純ではない。単語には人を規定し抑圧する加害性を孕んでいるのである。

一方で、人間社会はヒトとヒトとの有機的なコミュニケーションでもって成立しているため、殻に閉じこもるのではなく対話を通じ落としどころを見つける必要がある。確かに恋愛はグロテスクである一方で、恋愛当事者の個と個の関係もグロテスクな側面を含む。なぜならば、他者のことを完全に知ることはできず、仮想的に立てた内なる他者との推論が介在するため、認識の食い違いはどうしても発生するからだ。

『DREAMS』では実際に祖母と母が『フラッシュダンス』の評価について対立する場面がある。双方もフェミニズム運動に関心はある。しかし、男性に媚びたダンスを主軸とする表象に女性たちの草の根運動を無にしたと怒る祖母、むしろ男性社会の中で光り輝こうとする様が重要であり、そもそも楽曲が素晴らしいと思った自分の感情を大切にしたい母とで対立が生じるのだ。しかし、これはあくまで議論でシーンが終わったら何事もなく人生は続く。ヨハンネもまた様々な人と議論をするのだが、その議論はフェーズが終わると一旦リセットされ、他者との適切な距離を保ちながら再び自分の世界に戻るのである。それは終盤の明らかにチェックメイトな状況下でも同様にニュートラルであり続ける。これこそがあるべき多様性であるとダーグ・ヨハン・ハウゲルードは静かに囁くのである。

煽情的な二項対立に落とし込んだ作品が三大映画祭の最高賞に並び暗澹たる気持ちになることもあったが、ダーグ・ヨハン・ハウゲルードの眼差しによって希望の光が差し込んだのであった。
※映画.comより画像引用