『彼女と彼』閉鎖領域からのエクソダスと領域侵犯

彼女と彼(1963)

監督:羽仁進
出演:左幸子、岡田英次、山下菊二、長谷川まりこ、長谷川明男、木村俊恵、平松淑美etc

評価:90点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

昼休みに「世界は団地でできている」を読んでいたら羽仁進『彼女と彼』の団地とスラムの関係性とアメリカ史における先住民迫害の歴史を交差させて語る面白い話に触れた。ちょうどシネマヴェーラの羽仁進特集で上映されていたので会社帰りに行ってきた。団地映画のオーソドックスな型を持ちながら、撮影と空間の分け隔て方に光るものを感じた。

『彼女と彼』あらすじ

広大な団地アパートのある東京の郊外。石川直子、英一夫婦はこのアパートに住んでいる。ある朝直子はバタヤ集落の燃えている音で目がさめた。白い西洋菓子のようなコンクリートの城壁に住む団地族、それと対照的にあるうすぎたないバタヤ集落。直子はブリキと古木材の焼跡で無心に土を掘り返す盲目の少女をみつけた。その少女は、夫の英一の大学時代の友人でこのバタヤ集落に住む伊古奈と呼ばれる男が連れている少女であった。犬のクマと少女をつれていつも歩いている男。服装はみすぼらしいが眼は美しく澄んでいた。長い金網のサクで境界線を作った団地とバタヤ集落とは別世界の様な二つの世界であった。夫を送り出したあとコンクリートの部屋で弧独の時間を送る直子に、眼下に見えるバタヤ集落の様子は、特に伊古奈という男は意識の底に残った。直子は夫を愛するように全ての人間を愛する事に喜びを感じていた。だから伊古奈にも、盲目の少女にも、クリーニング屋の小僧にも同じように善意をほどこした。直子の世話でバタヤから転業させようとした伊古奈は、社会から拘束されない今の自由さから離れられず、あいかわらず犬と少女を連れて楽しそうに歩いていた。そんな伊吉奈をみる直子の心は、単調な、コンクリートの中で他人の目を気にする自分達夫婦の生活に深い疑問をもち、夫との間に次第に距離を感じてゆくのだった。

映画.comより引用

閉鎖領域からのエクソダスと領域侵犯

スラムことバタヤ集落を押しのけるように聳え立つ団地群。団地の市民は、蔑視の眼差しで集落の民へと眼差しを向ける。すぐそばでありながら他人事であるかのような状況を集落での火災/団地から向ける眼差し/業火の音が消去されたイメージの3点でもって強調する。自分たちには対岸の火事に思えた集落だが、集落に住む盲目の少女を養う男・伊古奈が英一の友人であったことから無関係ではいられなくなる。

本作に登場する百合丘団地は、高度経済成長期を象徴するような空間となっており、部屋の中には三種の神器が整っており、プリミティブな暮らしをするバタヤ集落と並べることで見かけ上のユートピアとなっている。しかしながら、朝になると会社員はロボットのように駅へと向かい、大勢が住んでいるにもかかわらずコミュニケーションが生まれないディストピアの側面が浮かび上がる。英一が出勤すると、妻・直子は家事をしたりテレビを観たりするが退屈そうである。どこか息苦しさがある中で、刺激を求めてバタヤ集落へと足を運んだり、伊古奈と関係を結んだりするのである。ここには、どこか日常からかけ離れて他の地を侵食する危うさがあるのだが、同時に「妻」といった属性に押し込められ、ありたいような自分を迫害された者が他者を助けることで自分の存在意義を掴み取ろうとする様子が浮かび上がってくるのである。

団地映画では『壁の中の秘事』や『彼女について私が知っている二、三の事柄』など男が働いている間、団地で帰りを待っている妻は退屈であろう。故に刺激を求める。といったモチーフ使われる。本作もこの型に当てはまるのだが、その刺激の向くベクトルが日本特有の植民地主義的危うさと結びついており、そして安易な結末に転がさない点で優れた一本であったといえる。