『ルノワール』子どもは判ってくれない/判っている

ルノワール(2025)
RENOIR

監督:早川千絵
出演:鈴木唯、石田ひかり、中島歩、河合優実、坂東龍汰、リリー・フランキーetc

評価:100点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

第75回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門でスペシャル・メンションを受賞した『PLAN 75』の早川千絵がコンペティション部門に出世した。正直『PLAN 75』はまったくもっていい映画だとは思えず最新作『ルノワール』に対する期待は低かった。予告編こそバキバキにショットを決めている気配を感じたものの、昨今の日本映画にありがちな撮影は良いが脚本がイマイチな状況に陥っていそうな気もした。しかし、杞憂だった。むしろ、早川千絵監督を過小評価していた私が愚かに思えるほどの豹変を魅せており、今年のカンヌが激戦区であったものの、何か賞を与えるべき一本だと感じた。

『ルノワール』あらすじ

長編初監督作「PLAN 75」が第75回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門でカメラドール(新人監督賞)の次点に選ばれるなど、国内外で高い評価を得た早川千絵監督の長編監督第2作。日本がバブル経済のただ中にあった1980年代後半の夏を舞台に、闘病中の父と、仕事に追われる母と暮らす11歳の少女フキの物語を描く。2025年・第78回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品され、早川監督にとってデビューから2作連続でのカンヌ映画祭出品となった。

1980年代後半。11歳の少女フキは、両親と3人で郊外の家に暮らしている。ときに大人たちを戸惑わせるほどの豊かな感受性を持つ彼女は、得意の想像力を膨らませながら、自由気ままに過ごしていた。そんなフキにとって、ときどき覗き見る大人の世界は、複雑な感情が絡み合い、どこか滑稽で刺激的だった。しかし、闘病中の父と、仕事に追われる母の間にはいつしか大きな溝が生まれていき、フキの日常も否応なしに揺らいでいく。

マイペースで想像力豊かなフキが空想にふけりながらも、周囲の大人たちの人生に触れていく様子を通して、人生のままならなさや人間関係の哀感を温かなまなざしとユーモアをもって描く。フキ役はオーディションで選出され、撮影時は役柄同様に11歳だった鈴木唯。フキの母・詩子を石田ひかり、父・圭司をリリー・フランキーが演じるほか、中島歩、河合優実、坂東龍汰らが顔をそろえた。

※映画.comより引用

子どもは判ってくれない/判っている

ビデオから映し出される子どもをじっと見つめるフキは、それをゴミ箱へ捨て寝室に就く。しかし、何者かに絞殺されてしまう。葬式を神の視点から俯瞰し、泣いている人々は自分(フキ)に対して泣いているのか、可哀想な《自分》に対して泣いているのかと問う。ギョッとする場面であるが、これは彼女が学校で書いた作文での創作だと明らかになる。

別に居場所がないわけではないが、夫の介護で忙しい家とどこか浮いている学校との間を漂う、『大人は判ってくれない』のアントワーヌ・ドワネルのように。彷徨うフキは空っぽな器のような存在であり、そこに大人の事情や社会が注ぎ込まれる。親などは「なにも判っていない」ようにフキを捉える。確かに彼女は静かで、気が付けば自分の世界に籠って踊っているような存在だ。「子どもは判ってくれない」と捉えたくなる。しかし、「子どもは判っている」のだ。我々も幼少期を振り返ってみると、無垢で社会のことをなにも知らないように思えて実は本質を捉えていたりする。

ふと、小学生の頃を思い出す。当時、交通少年団に参加していた。毎年、夏に遠足イベントがあり、遊園地に行くのが恒例であったのだが、ある年から農地へと変わった。警察と農家の癒着なのではと文集に書いたら、その文集はなかったことにされた。図星だった。単に、遊園地が良かったのでその恨みを文章にぶつけていたのだが、大人社会の組織間の関係性といった本質的なところをわかっていた。このような、子ども特有の、大人になると忘れてしまうような感覚を映像で再現しているのである。

だからこそ、ビデオ内での世界/現実、家/学校の中間に眼差しを注ぎ続け、子どもと社会の間にある宙吊りの感情を掬い上げるのだ。

そして、本作が恐ろしいのは、シネフィルほいほいな引用をしながら、あるべきショットを捨て去る大胆さにある。たとえば、中盤で『少女ムシェット』を彷彿とさせる不穏な空気が流れる。明らかに事件が起きる予兆であるにもかかわらず、それは未遂に終わる。

また、『菊次郎の夏』から『スリ』へと遷移する、つまり競馬場でスリに遭う場面が勃発するのだが、スリの決定的瞬間は描かないのである。それは舌足らずでないことはステファヌ・ブリゼ監督の右腕編集者アン・クロッツによる厳格な間で明らかとなる。

フキかアパートの階段から「おーい」と虚ろな目をした女性に語り掛ける。彼女が反応するまで長い間が流れるのだが、一連の動作を長いショットで捉えていく。かと思えば、遠足でカレーを作る場面では野菜を洗う場面をサクッと切って、儀式へと移行する。その儀式の意外性によって観客の意表を突くのである。引用元は明確でありながら、我々が想像する方向には決して転がることなく、独自の感性の手綱は握られたまま。これをできる監督は滅多にいないのではないだろうか。

さらに、先日、矢田部吉彦シネマ・ラタトゥイユ公開収録で矢田部氏と早川監督が対談したのだが、そこで飛び出してきた映画名や監督名は『泥の河』/ステファヌ・ブリゼ/カルロス・レイガダスと『ルノワール』本編からは導き出せないようなものばかりであり、『大人は判ってくれない』/ロベール・ブレッソン/北野武は一切出てこなかった。

これは凄い映画体験だった。
※映画.comより画像引用