顔を捨てた男(2023)
A Different Man
監督:アーロン・シンバーグ
出演:セバスチャン・スタン、レナーテ・ラインスヴェ、アダム・ピアソン、ローレンス・アランシオetc
評価:85点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
2年ほど前、菊川の映画館Strangerで村山章さんとトークショーをした際のお題で「今後注目される監督と映画」として紹介したアーロン・シンバーグ”A Different Man”が邦題『顔を捨てた男』として公開が決まった。当時はまだベルリン国際映画祭に出品される前の制作段階だったため、A24とタッグを組んだぞ的な話をしたわけだが、まさかここまで出世するとは思わず嬉しいところである。映画も『美女と野獣』やドストエフスキーの「二重人格」を足して二で割ったような作品であり、比較的展開が予想できそうな題材ではあるものの、『Chained for Life』で取り上げたテーマを掘り下げた内容に仕上がっており大満足であった。
『顔を捨てた男』あらすじ
「サンダーボルツ*」「アプレンティス ドナルド・トランプの創り方」のセバスチャン・スタンが主演を務めた不条理スリラー。
顔に特異な形態的特徴を持ちながら俳優を目指すエドワードは、劇作家を目指す隣人イングリッドにひかれながらも、自分の気持ちを閉じ込めて生きていた。ある日、彼は外見を劇的に変える過激な治療を受け、念願の新しい顔を手に入れる。過去を捨て、別人として順風満帆な人生を歩みだすエドワードだったが、かつての自分の顔にそっくりな男オズワルドが現れたことで、運命の歯車が狂いはじめる。
容姿が変わっていく主人公エドワードの複雑な心情をセバスチャン・スタンが特殊メイクを施して熱演し、2024年・第74回ベルリン国際映画祭で最優秀主演俳優賞(銀熊賞)、2025年・第82回ゴールデングローブ賞のミュージカル・コメディ部門で最優秀主演男優賞を受賞。「わたしは最悪。」のレナーテ・レインスベがイングリッド、「アンダー・ザ・スキン 種の捕食」のアダム・ピアソンがオズワルドを演じた。外見やアイデンティティをテーマにした作品を手がけてきたアーロン・シンバーグが監督・脚本を手がけ、全編16ミリフィルムでの撮影による独創的な世界観を作り上げた。
人は見た目が9割?それとも中身が9割?
顔に障がいを抱えながらも俳優を目指しており、オーディションを受けるが鳴かず飛ばずな男エドワード。自伝的な脚本も書いているが表に出せる程ではない。結局、挫折するかのように隣人の女性に渡してしまう。劣等感にまみれた彼は一念発起し、顔整形手術に挑戦する。この手術は激痛を伴う過酷なものであったが、死闘の末、遂にイケメンを手にする。仕事も安定し、人生バラ色となりつつある彼は、タイプライターを渡したイングリッドが自分の人生にインスパイア受けた演劇をやろうとしていることに気づく。本人が主演すべきだろうと、オーディションに参加し公演の準備を進めていくのだが、過去の自分にそっくりな存在オズワルドが出現し状況が一変する。
『Chained for Life』では映画の撮影を通じて虚構/現実、マイノリティ/マジョリティを手繰り寄せたルッキズムと心理的壁の関係を考察していた。本作は変数を増やし、虚構/現実、内面/外見、自己/他者と3つのベクトルを用いてルッキズムと心理を掘り下げている。
『顔を捨てた男』では意外なことに多様性が認められた世界が描かれている。序盤では、顔に障がいを抱えたエドワードがごちゃごちゃしたアパートを縫うようにして自宅へと向かう場面となっているが、一般人と会話するように周囲の人は壁なく話している。しかし、それはヒトがモラルとして「壁なく話すこと」が意識されているからであり、意識のスイッチが入る前に視界に入ると差別的な態度になる瞬間が捉えられている。その顕著な例こそがイングリッドとの出会いの場面である。引っ越し現場の立ち合いでイングリッドがソファの搬入を見守っている中、エドワードが「通してくださいと」いう場面では、一瞬ギョッと仰け反るのである。
また、本作は一歩間違えればミイラ取りがミイラになるであろうマジョリティ側のグロテスクな理論の押し付けになりそうなところを踏みとどまっている点が強烈だ。イケメンになったエドワードだが、何者でもない、あるいは自分がどう見られているのかを気にしてしまうコンプレックスが残っている。そのため、自分を演じようとしても素顔では上手く演じることができず、整形前の顔の仮面を被る。つまり自分自身を演じるにもかかわらず、自分の仮面を被り、他者の視点から捉えなければ自分と向き合うことができないのだ。この演出は興味深く、映画における内なる他者性を自分の仮面でもってひとりに担わせる表象となっているのだ。我々も、内なる世界に籠る時、自分を客観視しようとするわけだが、その時の状況が映画として現出する。それは過去から現在の自己を纏ったものになるわけだが、過去の自分にそっくりなオズワルトは今の自分に足りないもの、理想像として現れる。つまり過去→未来の構造として浮かび上がる。これも自己啓発の世界において、現在の自分とあるべき姿の差分を通じて葛藤する構造となっており、形而上の世界から人間心理の本質を捉えた慧眼さを持っている。ただ、このアプローチだけの場合、マジョリティにも当てはまる普遍的な心理を障がいを都合よく利用して描いただけの作品になってしまう危険性を孕んでいる。
『顔を捨てた男』がそのような事態に陥っていないのは『Chained for Life』に引き続き出演しているアダム・ピアソンのカリスマ的演技にあるだろう。レックリングハウゼン病を患っている俳優のアダム・ピアソン。通常、このような障がいを持った俳優は哀れむ対象として映画の中で登場し、描かれがちだ。しかし、本作におけるアダム・ピアソンはエドワードのことを想いながらフランクに語り掛け、他人のことなどどうでもいい、自分がどうあるべきかに特化した振る舞いを行う。堂々としており、バーでのカラオケも進んでステージに上がり、魅力的な歌を披露する。一度観たら忘れられない。振る舞いによる空間支配を行ってくるのだ。映画におけるステレオタイプの振る舞いから逸脱した様を描きながら人間心理の本質を突いてくる点が凄まじいのである。
是非とも『Chained for Life』も日本公開されてほしい。アーロン・シンバーグ監督、今回も素晴らしかった。
※映画.comより画像引用