HERE 時を越えて(2024)
Here
監督:ロバート・ゼメキス
出演:トム・ハンクス、ロビン・ライト、ポール・ベタニー、ケリー・ライリー、ミシェル・ドッカリーetc
評価:30点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
ロバート・ゼメキス新作が定点カメラ映画と聞いて観てきた。これが大問題作であった。
『HERE 時を越えて』あらすじ
「フォレスト・ガンプ 一期一会」のロバート・ゼメキス監督とトム・ハンクス、ロビン・ライトが再結集し、リチャード・マグワイアの傑作グラフィックノベル「HERE ヒア」を映画化した壮大なドラマ。地球上のある地点にカメラを固定し、その場所に生きる幾世代もの家族の愛と喪失、記憶と希望を描く。
恐竜が駆け抜け、氷河期を迎え、オークの木が育ち、先住民族の男女が出会う。やがてその場所に家が建てられ、いくつもの家族が入居しては出ていく。1945年、戦地から帰還したアルと妻ローズがその家を購入し、息子リチャードが誕生する。世界が急速に変化していくなか、絵を描くことが得意なリチャードはアーティストを夢見るように。高校生になったリチャードは別の学校に通う弁護士志望のマーガレットと恋に落ち、2人の思いがけない人生が始まる。
ハンクスがリチャード役、ライトがマーガレット役を務め、最新VFXの技術を駆使しながら、それぞれの10代~70代の姿を演じた。
※映画.comより引用
そのスプリット・スクリーン、MVの世界じゃあ常識なんだよ
『ツリー・オブ・ライフ』さながら恐竜時代から映画が始まり、文明の発展を定点で捉えていく。リュミエール兄弟の映画聡明期において、映画は固定されたカメラで決定的瞬間を捉える働きを果たしていた。つまり、2025年にプリミティブな映画を作ろうとする。それもゴリゴリにCGを使ってという極めて実験的アプローチとなっている。とはいえ、本作は時空を超えることがコンセプトにあるため、場面転換をする必要がある。どうやってそれを可能にするのか?
『HERE 時を越えて』はスプリットスクリーンを使うことによって場面転換を容易に行っている。家の一部が四角で覆われ、別の時代の同じ場所を映し出すのである。時にその時空の重ね合わせが運動としてリンクする。例えば、雨漏りという悲劇的な場面と対照的に破水を起こし出産する女性が共存したり、結婚祝いをする空間のテレビだけが四角で覆われ、ビートルズの放送が騒がしく流れていく。
土地の結びつきを、時間軸のレイヤーからサンプリングして同時に存在させるのである。映画はカット割りによって時間の繋がり、モンタージュを形成していく傾向が強いのだが、MVに近いアプローチで時間を繋げていく点が興味深い。
しかし、一方でその特殊なスプリットスクリーンを使いこなせておらず、30分もたたずに単調で陳腐な演出へと陥ってしまっているのがあまりにも勿体ない。MVの世界ではこの手の使い方は散々研究されており、最近の例だと名取さな「きらめく絆創膏」では、スマホ画面に映るキラキラした世界と、翳り差し込み内なる世界へと潜っていく画を同時共存させることで、人間心理やVTuberの二面性を表現している。スマホの縦画面と横画面を統合させたスプリットスクリーンが特徴的でもある。稲葉曇「私は雨」は2分割された画をベースにアンニュイな少女を描いていくのだが、絵が時折境界を溶かしていき一体となる場面がある。「一粒では気づくことのない雨」を体現したような演出であり、内面の様々な側面が重なり合ってアイデンティティを形成する様を雨に象徴させた歌詞に対するアンサーがこのスプリットスクリーンが溶ける場面に反映されているといえよう。
それだけに、あのスプリットスクリーンをやるのなら、例えば縦に5本ぐらい長方形で割って、様々な時代の人物が時をかけて継承していくような表現ぐらいはやってほしかった。
また、本作は「サバービアの憂鬱」における『バック・トゥ・ザ・フューチャー』論に触れておくと味わい深いものとなる。『HERE 時を越えて』において、時代が変わっても大してライフスタイルが変わっていないように思える様は大場正明が『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で指摘していたことと一致するのである。
他にもラストがソダーバーグ『プレゼンス 存在』と同じだったり興味深い場面はあるものの、そこまで面白くはないかつ、勿体なさすぎてガッカリ感の強い一本であった。
P.S. 『HERE 時を越えて』のスプリット・スクリーンって原作由来の手法のようだ。原作の質感ってリチャード・ハミルトン「一体何が今日の家庭をこれほどに変え、魅力あるものにしているのか」をベースにしてそうだな。
※映画.comより画像引用