劇場版プロジェクトセカイ 壊れたセカイと歌えないミク(2025)
監督:畑博之
出演:藤田咲、下田麻美、浅川悠、拝郷メイコ、風雅なおと、野口瑠璃子、星乃一歌、礒部花凜etc
評価:40点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
2025年期待の作品として『劇場版プロジェクトセカイ 壊れたセカイと歌えないミク』を挙げた。本作はボカロ系音楽ゲームである「プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク」、通称《プロセカ》の映画化である。私自身、リズム感覚がないので全く音楽ゲームはやらない。今までにやったことのある音楽ゲームは「ビブリボン」「パラッパラッパー2」「リズム天国」「A Dance of Fire and Ice」ぐらいだろう。なので、プロセカに関しては
・ボカロ系音楽ゲーム
・にじさんじライバー社築さんの切り抜き動画で5秒ほど目撃した
・「星界ちゃんと可不ちゃんのおつかい合騒曲」が収録された
程度の知識である。しかしながら、ボカロ文化に関しては少し興味があったりする。DECO*27ぐらいは知っているし、ユリイカの「いよわ特集」は読んだ。最近、しぐれうい「ひっひっふー」でじんさんのことが気になっている程度にはボカロに触れている。ということで仕事終わりに観てきた。
なんとなくチケットを取ったら、なんと発声可能な「応援上映」であった。予告編からは発声するような場面はないように思えるし、何を発声すべきなのかも分からない。ドキドキで劇場へと足を運んだ。今回は「応援上映」込みのレポートである。
「初音ミク」をはじめとするバーチャルシンガーたちが登場する人気アプリゲーム「プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク」(略称・プロセカ)を劇場アニメ化。ゲームには登場していない新しい「初音ミク」が「プロセカ」のキャラクターたちと出会い成長していく姿を完全オリジナルストーリーで描く。
CDショップで聴いたことのない初音ミクの歌を耳にした星乃一歌は、モニターに映しだされた見たことのない姿のミクと目が合うが、ほどなくしてミクは消えてしまう。後日、路上ライブを終えた一歌のスマホに、以前見かけたミクが姿を現す。ミクは“想いの持ち主”たちに歌を届けようとしているが、いくら歌っても届かないと思い悩んでいた。そんな時、ライブで多くの人の心に歌を届ける一歌の姿を見て、彼女のことを知れば自分も歌を届けることができるのではと考えたのだった。一歌はそんなミクの願いをかなえるため、仲間たちとともに歌を届けることを決意する。
「SHIROBAKO」「凪のあすから」などで人気のアニメーションスタジオ「P.A.WORKS」がアニメーション制作を担当。
プロセカエアプが発声上映に行ってみた話
本作はどうやら通常上映であっても特殊な構成となっている。まず最初に初音ミクによる舞台挨拶があるのだが、ここでは写真撮影が可能となっている。ここ10年、映画「おかあさんといっしょ」シリーズや『劇場版 シルバニアファミリー フレアからのおくりもの』と映画上映後に写真撮影タイムが用意されている作品はあるが、本作は最初に用意されている真新しさがある。2月に公開される『映画 ヒプノシスマイク -Division Rap Battle-』がスマホ投票で映画の内容を決めていくインタラクティブ型の作品になっていたり、近年、映画館での体験が変わりつつある。実際に、海外では映画はライブのようなものとなっており、上映中に撮影された動画がバズっていたりする。日本映画界もそのような方向に歩み寄っているように思える。
また、本作では上映後にアフターライブがあり、そこでペンライトの使用や発声が全面的に許可されているのである。そして、驚いたことに、恐らく本編はアフターライブだと思われる。近年、VTuberをはじめとするアバターを用いたヴァーチャルライブが盛り上がりを魅せており、実在感を与えるための映像技術が飛躍的に向上している。そのため、アフターライブの画は、3DCGではあるが、ハリウッド顔負けのリアルさを持ったものとなっているのだ。当然、初音ミクをはじめとするキャラクターたちはモーションキャプチャーによってヌルヌルと動く。アニメ本編における一般的なタッチと比較するとアフターライブの3DCGはあまりにもリッチな画となっており、本編が薄味ということもあり、どちらが本編なのかわからなくなってくるのだ。このように考えた際に、本作の構成はバランスが悪いと感じる。アフターライブはたった2曲しかやらないのだ。しかも、応援上映、客席の8割が埋まっている状態ながら一言も発声されることはなかった。無論、ファンは大歓喜のようでペンライトを振り、曲が終わると拍手が巻き起こっていた。恐らく、セトリがノリ辛い曲だけで構成されていたのが原因なのではないだろうか。
本編に目を向けると『劇場版 忍たま乱太郎 ドクタケ忍者隊最強の軍師』以上にキャラクター同士の瞬間的な関係性だけで構成されている作品となっており、ファンは要所要所でどよめいたり、笑っていたりしたが、映画として観ると、シリアスさを支えるための地盤が弱い。ボーカロイドを使うことは、自己投影を共通のフレームワークの中で行う表現手法であり、同じ「初音ミク」でも、扱う人によって違った質感を魅せる面白さがある。誰にも所有されていない野良の「初音ミク」が、社会を勇気づけようと歌を届けても、「初音ミク」に興味がない人はもちろん、扱う人の存在が見えてこず、ただのノイズにしか聞こえないのだ。そのような状態で、バーチャル世界とフィジカル世界双方が社会の絶望を吸収し、厄災をもたらそうとするのだが、クリエイターと社会との掘り下げが弱い。つまり、クリエイターだけの世界に閉じこもった感覚が否めない。無論、そういう作品もあったりするが、本作はクリエイター心理もちょっとしたスランプか背景なき絶望しか存在しないので、この厄災に説得力がないのである。結局なんだかんだあって初音ミクはアイデンティティを見出しました。めでたしめでたしといった感じなのである。
ただし、この辺に関してはボカロ論と絡めると面白い理論が見えてくるかもしれない。抽出すべき要素は「初音ミクの消失を通じて、人間が歌う」ことにある。ボーカロイドは、機械に歌わせる文化ではあるが、現状ボカロPはVTuberに楽曲を提供する機会が増えている。いよわ×名取さな「パラレルサーチライト」、DECO*27×しぐれうい「あいしてやまない」などといったように。アバターを用いながらも実体を重ね合わせて活動するタレントに歌わせる機会が増えているのだ。つまりボカロ文化の今は「他に歌わせる、そして歌を届ける」といった本質を持ちながら、仮想と実体が曖昧になった状態で活動しているといえる。それが劇中における、若者がフィジカル/ヴァーチャルを抵抗なく行き来しながら創作する様と、最終的に人間が歌う流れへと繋がっていると感じた。
※映画.comより画像引用