『エマニュエル』拡張された眼差しは孤独を生み出し、箱から箱へ

エマニュエル(2024)
Emmanuelle

監督:オードレイ・ディヴァン
出演:ノエミ・メルラン、ウィル・シャープ、ジェイミー・キャンベル・バウアー、チャチャ・ホアンetc

評価:80点


おはようございます、チェ・ブンブンです。

『あのこと』でヴェネツィア国際映画祭最高賞を受賞したオードレイ・ディヴァンが次回作に『エマニエル夫人』を選んだと聞いて、制作段階から楽しみにしていた。『エマニエル夫人』はエロ映画の代名詞ではあるが2020年代からすれば『Swallow スワロウ』のような、奥なる存在として押し込められた女性の苦悩を描こうとしているように思える。オードレイ・ディヴァンはエロ映画の文脈から引きはがすことで、女性論を語ろうとするのではないか?そんな期待があった。

しかし、映画祭シーズンになっても主要映画祭に全然出品されておらず、わけあり作品が集まると言われるサン・セバスチャン国際映画祭行きとなった。そして、海外プレスからの評判が非常に悪く「『エマニエル夫人』をリメイクすることはメレンゲに除細動するようなもん」と有り余る言葉で叩かれた。しかし、個人的には海外プレスはエロ映画の側面から捉えようとしており、また映画祭時期の瞬発力における批評であろうから、あまり信頼できないと感じていた。

実際に東京国際映画祭上映時に私の知り合いのシネフィルたちはこぞって本作を褒めているのである。

ようやく日本公開され、観たのだがこの現象が起こる理由が分かった。ようはエロ映画としてもジェンダー論映画としても簡単に消費させない意志が滾る一本であり、容易に想像できるであろう『Swallow スワロウ』的構造から外したアプローチが採用されていたのだ。と同時に、オリエンタリズム描写であったり、『四月』同様「male-gazeなどが起こるのはエロい格好をしているからだ。誘っているんだろ?」と性加害に加担する者が常套句のように使用するロジックを助長するような場面があるので綱渡りな映画ではある。それでも、このロジックに向き合うことで「ある視点」を見出すことができるのではと考えている。それでは描いていく。

『エマニュエル』あらすじ

1974年に映画化され日本でも大ヒットを記録したエマニエル・アルサンの官能小説「エマニエル夫人」を、「あのこと」でベネチア国際映画祭金獅子賞を受賞したフランスのオドレイ・ディワン監督が、舞台を現代に移して新たに映画化。

ホテルの品質調査の仕事をするエマニュエルはオーナー企業から依頼を受け、香港の高級ホテルに滞在しながら査察をすることに。サービスも設備もほぼ完璧で最高評価の報告書を提出するエマニュエルだったが、ランキングが落ちたことが許せないオーナーは経営陣のマーゴを懲戒解雇できる理由を見つけるよう、エマニュエルにマーゴの粗探しを命じる。ホテルの裏側を調べはじめたエマニュエルは、怪しげな宿泊客や関係者たちと交流を重ねるなかで、自身の内なる欲望を解放させていく。

「燃ゆる女の肖像」のノエミ・メルランが主演を務め、「インポッシブル」のナオミ・ワッツ、「ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ」など監督としても活動する俳優ウィル・シャープ、「シャドウハンター」のジェイミー・キャンベル・バウアー、「インファナル・アフェア」シリーズのアンソニー・ウォンが共演。

映画.comより引用

拡張された眼差しは孤独を生み出し、箱から箱へ

エマニュエルが飛行機で生足をチラつかせる。それをジッと見つめる男がいた。ゴリゴリのmale-gazeから本作は始まる。飛行機のトイレで情事に明け暮れたエマニュエルとモブおじさん。彼女は何食わぬ顔で出張先の香港高級ホテルへとチェックインする。

ここで『エマニエル夫人』とは大きく異なる、そして極めて重要なポイントが現れる。エマニュエルの仕事はホテルを監査することなのだ。『エマニエル夫人』の場合、外交官の妻としてバンコクの街を徘徊し性生活を送る。『エマニエル夫人』の時代において「男が仕事をしている間、妻は家に閉じこもり退屈な家事をしているであろう。その退屈さから情事に明け暮れているのでは?」といった思想が国際的にあったように思われる。実際に、ジャン=リュック・ゴダールは『彼女について私が知っている二、三の事柄』を撮っており、日本でも団地妻系の映画が一時期たくさん作られた。史実においてもフリーダ・カーロとディエゴ・リベラの関係性にその思想が垣間見える。

だが、2020年代はどうだろうか?男女平等がある程度進んだ。そして物価高騰などにより女性も働く必要がでてきた。つまり「主婦」たる存在が希薄となってきたわけだ。そのため、今回は監査員として金持ちだが厳しい環境で働く女性像を主軸に置いた。それに伴い、male-gazeは男女問わないように描かれており、それによる心象表現を肉付けするためにディスプレイが活用されている。

エマニュエルは監査員としてモニタールームへと入り、従業員や宿泊客を監視している。だが、一方で自分自身もモニター越しに経営陣のマーゴから監視されている。外資企業あるあるだろう。同僚はすべて敵であり、表面上の友好関係は築きつつも、数字のために人を裏切る必要性があることから自分も裏切られるかもしれないという不安が心を支配しており、孤独の中で自分の拠り所を探すこととなるのだ。

オードレイ・ディヴァンはギミックとして「システム」と「箱」を結び付けているように思える。エマニュエルは『マイレージ、マイライフ』のジョージ・クルーにのように、上位存在として上から下へ降りていく運動を繰り返す。飛行機における上昇下降、そしてホテルにおける高層階からフロントに降りる、昇るの反復によって。ただ、一見優雅に見える彼女の生活も、社会システムや業務システムとして「箱」の中で生かされているだけに過ぎず、閉塞感に満ち溢れているのだ。表面上は美しくも、内面は虚無であり、その構造から出られない様を、扉の向こうの廃墟同然な建築現場と重ね合わせている。

やがて彼女はそのことを自覚し、ホテル内の信頼できない存在に身を寄せるよりも、ホテル外の信頼できない存在へ身を委ねようとする。同じ裏切りであっても、同僚に裏切られるよりかは自由があるからだ。こうして、ケイ・シノハラの面影を求めるわけだが、折角「箱」から飛び出し自由になったのに、類似の小さな「箱」に収まることで映画は終わる。

皮肉な内容ではあるが『世界の終わりにはあまり期待しないで』や『四月』における、有害な社会を受容することで枯れ切った心の束の間を癒す心理的側面にフォーカスを当てており、映画における女性表象を語る上で重要な一本なのではと感じた。

P.S.なんとなく青山真治『空に住む』と構造が似ているような気もした。