敵(2024)
監督:吉田大八
出演:長塚京三、瀧内公美、河合優実、黒沢あすか、中島歩etc
評価:40点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
第37回東京国際映画祭にて筒井康隆の同名小説を映画化した『敵』を観た。『仮面/ペルソナ』や『惑星ソラリス』系の内なる他者を扱った作品であり、私の得意ジャンルではあったのだが、結果は渋いものであった。
『敵』あらすじ
筒井康隆の同名小説を、「桐島、部活やめるってよ」「騙し絵の牙」の吉田大八監督が映画化。穏やかな生活を送っていた独居老人の主人公の前に、ある日「敵」が現れる物語を、モノクロの映像で描いた。
大学教授の職をリタイアし、妻には先立たれ、祖父の代から続く日本家屋にひとり暮らす、渡辺儀助77歳。毎朝決まった時間に起床し、料理は自分でつくり、衣類や使う文房具一つに至るまでを丹念に扱う。時には気の置けないわずかな友人と酒を酌み交わし、教え子を招いてディナーも振る舞う。この生活スタイルで預貯金があと何年持つかを計算しながら、日常は平和に過ぎていった。そんな穏やかな時間を過ごす儀助だったが、ある日、書斎のパソコンの画面に「敵がやって来る」と不穏なメッセージが流れてくる。
主人公の儀助役を12年ぶりの映画主演になる長塚京三が演じるほか、教え子役を瀧内公美、亡くなった妻役を黒沢あすか、バーで出会った大学生役を河合優実がそれぞれ演じ、松尾諭、松尾貴史、カトウシンスケ、中島歩らが脇を固める。2024年・第37回東京国際映画祭コンペティション部門出品。
依存先を失ったときに敵が現れる
食事を作る、PCに向かって執筆する、たまに人と会う。そんなルーティンをこなす渡辺儀助の日常をジャンヌ・ディエルマンのように淡々と追っていく。当然ながら、その過程でほころびが生まれ、本作のテーマへと繋がっていく。
渡辺儀助は2つの方法で思索を外部化している。ひとつはPCである。そしてもうひとつは、他者だ。彼自身は孤独を受容し、質素であると自覚しながらも毎日豊かなご飯を作り嗜んでいる。遺言状も書き、この世に未練はなく、あとは来るべき死を待つだけなのだが、その平穏は他者の存在によって成り立っていることが段々と分かっている。老体でありながら、先立たれた妻のことは心のどこかに引っかかっており、性欲もある。表面上は抑えているように思えるが、教え子を家へ招く中で性欲が起動する。結局のところ、本当の孤独を受容している訳ではなく、他者、もとい女に孤独の痛みを吸収してもらって平穏が訪れているだけなのだ。
対話の場の喪失、PCがコンピューターウイルスか何かで起動しなくなる2つの条件を満たしたとき、渡辺儀助は「本当の孤独」と対峙せざる得なくなる。無意識が干渉してくる夢において、他者との対話を行う必要が出てくる。その中で、彼が抱く恐怖が現出してくるのだ。つまり、依存先を失った者が内なる他者と対話することで孤独を捉える話であり、おじさんおばさんが若者に執着する心理を風刺している。
ここまで書いて面白い映画だとは思ったものの、演出に難があり乗れなかったことを報告したい。まず、食事の描写であるが、執拗さの割りにそれが効果的に思えなかった。ほとんどの料理が等価に扱われているのである。夢による妻との対話によって痛みが軽減されると共に現実が凄惨になる『異人たちとの夏』のような展開を期待したが、彼がわびしい食事をするのはカップ麺を落とす場面1か所のみ。微かに洗面台の雑然とした食器を魅せていたりするが、食事のクオリティへ直結しているわけではないので分かりにくい。「失われた時を求めて」に出てくる食事を背伸びして作る場面も、前後の対比で食事の全体像を魅せていないので機能しているようには思えなかった。
ふたつめに、ダークコメディ要素がノイズで終わっていた点にある。PI上映では爆笑の嵐ではあったのだが、安易なヒッチコックオマージュであったり、犬の糞を使ったギャグがテーマの重さに見合っていないように感じ、ただただ下品であった。
最後に、本作は料理を作る運動のほかに、棚卸しをする運動が並行して描かれている。渡辺儀助の思索のメタファーとして棚卸しの反復があるのだが、料理を作る描写同様映画全体としての運動の差異を描き込めておらず、演出の効果を十分に発揮できていなかった。
結果として全くハマらず虚無の刻を過ごしたのであった。
※映画.comより画像引用