『大学 At Berkeley』中産階級の終焉にアメリカは何を想う?

大学 At Berkeley(2013)
At Berkeley

監督:フレデリック・ワイズマン

評価:90点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

今年は『至福のレストラン 三つ星トロワグロ』に引き続き、「フレデリック・ワイズマン傑作選<変容するアメリカ>」が開催されるワイズマン強化年となっている。ラインナップの中にずっと観たかった『大学 At Berkeley』があったのでシアター・イメージフォーラムで観てきた。危ないことにラスト1席だった。『至福のレストラン 三つ星トロワグロ』を観た時、編集に問題がある作品だと思いがっかりしたのだが、本作はワイズマンの中ではトップクラスに切れ味抜群な編集となっていた。

『大学 At Berkeley』概要

1967年に第1作を発表して以降、半世紀以上にわたってアメリカ社会を見つめ続けてきたドキュメンタリー監督フレデリック・ワイズマンが、2013年に発表した長編ドキュメンタリー。オバマ政権からトランプ政権へという大きな変化を経験した2010年代のアメリカ社会を記録し、民主主義の価値を問うた作品群のひとつ。

カリフォルニア大学バークレー校。そこはアメリカで最も古く権威のある総合大学で、世界有数の研究教育機関でもあり、学生運動の拠点にもなったリベラルな校風でも知られる。そんな同大学の授業や研究活動をはじめ、学費に対するデモ、運営のための無数の会議や行政との折衝など、さまざまな場面をとらえ、多視点で「大学」を記録した。

日本では2024年の特集上映「フレデリック・ワイズマン傑作選<変容するアメリカ>」で上映。

映画.comより引用

中産階級の終焉にアメリカは何を想う?

カリフォルニア大学バークレー校の成り立ちを語る場面から始まる。

「大学作ろうぜ!」

といった軽いノリで作られた逸話の本質として「エリートだけではない、多様な知が集まる場」としての大学像が語られる。これこそが『大学 At Berkeley』の骨格ともいえる。まず、経営層から掘り下げられる。多様な知が集まる場所と大学を定義すれども、実際の経営は厳しい。年々、カリフォルニア州からの補助金が削減されている中、どのように中産階級から寄付金を回収し、低所得層へ支援していくかが議論される。「それでは経営方針を語ってもらいましょう」といったところで、場面は学生のディスカッションへとシフトする。

経済と社会の関係を紐解く授業らしい。中産階級が死にゆくアメリカを学生たちがどのように捉えているかが掘り下げられる。カリブの国から夢を抱きやってきた学生は幻滅する。故郷では、学校教育に力を入れており、そこに誇りを持っていた。アメリカに来ればより良い教育を受けられるだろうと思っていた。しかし、実態は凄惨であった。アメリカの低所得層は音楽の授業すらない学校に通っており、貧しさ故に教育が受けられなかったのだ。発展途上国以下の惨状となっているのである。また、別の学生は、「万人に機会だけが与えられている国、それがアメリカだ」と定義した上で、個人主義を訴えていく。日本では、あまり見かけない程のスリリングなディスカッション。下手すれば差別的だと思われたりするだろう。しかし、心理的安全性が確保されているのか、学生たちは自分の内なる思想を開示し、ぶつけあっていく。収拾がつかなくなるのではと思うのだが、教授はファシリテーションのプロとして、問題を整理していく。この議論の中では「貧困国のことは哀れみの眼差しを向け手を差し伸べようとするが、自国に対しては《自己責任》とあたりが強い」といった本質が炙り出される。日本における海外ボランティア行く人に対する「日本にも貧困あるけど、なぜ海外へ?」問題は国際的に存在する、人間の普遍的な問題であることが示唆されるのだ。

本作は、ワイズマン十八番のビジネス的側面の積み上げによって物語られていく。いつもは、モザイク状に事象を積み上げていくだけのように思えるが、本作は円環構造のように、終盤1時間へ向かって収斂していく。

終盤1時間は、学費値上げに対するデモなのだが、これが凄まじい。学生サイドを撮ったかと思うと、経営層側が映し出される。100もの要求を投げつけて来た学生に対して、当日中に学長声明を出す必要がある。学長権限でも判断ができない中から、「とりあえず3つに絞ろう」などと作戦を考えていくのである。時間はない。緊迫がほとばしる。

ここで中盤の経営層ミーティングが重要な役割を果たす。有事の際の郡警察との連携や、体制について議論が交わされるのだが、その実践がまさしく「デモ」だったのだ。学長たちは60年代ベトナム戦争時代の学園闘争の当事者である。しみじみした顔で「あの学園闘争には哲学がなかった」と語るのだが。伏線回収のように、今回のデモに対し「哲学がない」といった声が学生サイドからも挙がっていくのだ。アメリカは行動の国であり、デモに対して好意的に見ているのかと思いきや、割と否定的な声が挙がっている。試験中にもかかわらず非常ベルを鳴らした人に不満を抱くのである。

他にも興味深いシーンがある。工学部の人だろうか?研究チームに黒人を交えるかどうかで韓国人あるいは中国人の学生と揉める場面がある。彼は「白人とアジア人はよく挙手をし、授業に貢献している」と自分たちを持ち上げ、「差別的発言になるかもしれない」という葛藤を抱き、苛立ちながら教授の介入の無意味さと自分たちの正当性を語ろうとする場面がある。この時の「アジア人」という表現が気になった。恐らく、彼にとっての「アジア人」は韓国人もしくは中国人を示しているだろう。日本人は含まれていないように思えるのだ。なぜならば、日本人は留学の現場をみても積極的に発言している人は少ないように感じるからだ。いわゆる「みんな」という拡大したカテゴリーで、黒人を遠ざける口実にしようとしているのではないか。「中国人」「韓国人」ではなく「アジア人」とすることで、みんな授業に貢献していることが強調される。そして、白人と同列だとすることで、自分たちを名誉白人にしようとしているような気がした。無意識なる問題発言を捉えていくところは『至福のレストラン 三つ星トロワグロ』にも通じるワイズマンの意地悪なところだといえる。

一方で、今回、フレデリック・ワイズマンの弱点が分かってきた。多く句2つある。

ひとつめは、インターネット領域には弱い点である。本作の場合、ボットやスパイウェアを通じたサイバー攻撃に関する議論の場面がある。有事に対する議論の延長戦にある訳だが、実際の対策レベルの証言に踏み込むことができなかった。あっさりカメラは撤退してしまっているのだ。

ふたつめに、ビジネスの話をメインとしているものの、広告運用や効果測定の話には踏み込めていない問題がある。これは『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』や『至福のレストラン 三つ星トロワグロ』にも共通するものがある。本作の場合、いかにして寄付を募っていくか、他の大学に負けない教育戦略、マイノリティの学生の増やし方について語られる。しかし、実際にどのように広告を打つのか?実際に改善が行われる様子は全く捉えられていないのだ。ワイズマンの作品はPDCAを撮れているようで撮れていないことが多いのではと思った。

このような欠点はあれども、日本では受けることのできないディスカッションタイプの授業を覗き見でき、教育現場における課題を多角的に掘り下げた本作は休憩なしの4時間があっという間に感じるほどに面白かった。

アメリカにおけるディベートは情熱をぶつけ空間を支配することが重要らしく、議論や語りは上手いけれど論点をズラしながら相手を支配しようとするような怖さがあるなとも思い、興味深い経験となった。