【 #EUフィルムデーズ 】『ファイナル・カット』映画のフッテージだけで物語れるのか?

ファイナル・カット(2012)
Final Cut: Hölgyeim és uraim

監督:パールフィ・ジョルジュ

評価:99点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

毎年、国立映画アーカイブで開催されるEUフィルムデーズですが、今年はコロナ禍ということもありオンライン開催となった。そのラインナップに鑑賞難易度SSRランクの作品が入っていた。その名も『ファイナル・カット』だ。

『タクシデルミア ある剥製師の遺言』、『ハックル』といったカルト映画で有名なハンガリーの鬼才・パールフィ・ジョルジュが445本もの往年の名作のフッテージを繋ぎ合わせて1本の物語を作った異色作だ。カンヌ国際映画祭で上映され話題となり、日本でも大阪ヨーロッパ映画祭で観客を驚かせた代物なのだが、権利上の関係で教育目的でしか上映不可能となり長年観ることができなかった。それが突然、しかも無料で配信されると聞いて飛び上がりました。いやいや、お金払いますよレベルの事件であります。そして、噂通りの大傑作だったので、ここで考察を書いていきます。

【ネタバレ】『ファイナル・カット』引用作品一覧

『ファイナル・カット』あらすじ

男と女が出会い、恋に落ち、幸せな結婚をし、やがてすれ違い、別れの時を迎える。いつの時代にも表現されてきた普遍的な物語を、有名な450作品のカットを編集して製作。一世紀に及ふ映画史を旅するような喜ぎと映画への愛にあふれた珠玉の作品。
※青山シアターより引用

映画のフッテージだけで物語れるのか?

2010年代は、ゴダール的引用から物語る引用の時代へシフトしていった時代だと私は考えている。ゴダールは、知識はあれど物語ることのできないコンプレックスと向き合い、やがて暴力的なまでの引用のツギハギを《ゴダール》というブランドに落とし込み、唯一無二の存在、まさしくGOD-ART(=芸術の神)となった。しかし、ゴダールの近作、それこそ『ゴダール・ソシアリスム』、『さらば、愛の言葉よ』、『イメージの本』は物語ることを完全に放棄し、ゴダールが得意とする映画の概念破壊だけを抽出している。そして、ゴダールがマスコミに対して飄々としている(例えば、『イメージの本』がカンヌに出品された際に、スマホで記者会見をしたり、『13時間 ベンガジの秘密の兵士』を引用したことを指摘されればヒラリと受け流してみたり)のを見ると、彼自身が時代遅れになっていることを認知しているように思える。
ゴダール的引用の裏側で2010年代のフッテージ映画は変容を遂げてきた。SNSやインターネットが大衆のものとなり、youtubeで小・中学生であっても映画やアニメのイチオシシーンを並べてBUZZれる時代になったことと連動するように新しい時代が到来したのだ。それは、《物語る引用》である。昨年、私の新作ベストに入れたガイ・マディンの『THE GREEN FOG』は、往年のサンフランシスコを舞台にした名作を繋ぎ合わせて、アルフレッド・ヒッチコックの『めまい』をサイレント映画として再構築する内容だった。東京フィルメックスで上映された『とんぼの眼』は監視カメラの映像を繋ぎ合わせて1つの物語を形成する話であった。フィルムの時代から、デジタルの時代へと変わり、容易に映像へアクセスし、編集できる時代となった。ペーター・チャーカスキーのようにフィルムを加工して、職人芸のようなMAD動画を作る時代。ジャン=リュック・ゴダールのようにあらゆるメディアを変容させる職人の時代から変わりつつあるのだ。もちろん、映画の中における夜空だけを並べた『★』のような作品もありますが、明らかに2010年代のフッテージ映画には《物語》があります。

そして『ファイナル・カット』はそのような文脈において最重要かつ大傑作な作品である。

『アバター』の目覚めのカットから、映画は始まる。そして、様々な映画の目覚めのシーンを層状に重ねていく。フッテージだけで物語るには、同様の行為のシーンを塗り重ねていく必要があるのだ。男が朝目覚めて、着替えて、外に出るまでを塗り重ねで描いていく。そして、『サタデー・ナイト・フィーバー』のカットと共に《Stayin’ Alive》が流れるのだが、カットは移ろいゆくのに、音楽だけは追尾していく。映画において、音楽は行間を飛び越えることができる映画の特徴を捉えていくのだ。

その演出は、映画において音楽がいかに重要かを裏付けることとなる。『私の20世紀』の曲がり角で衝突シーンを使い、ボーイ・ミーツ・ガールが描かれ、そこから輝ける青春、恋に溺れる狂乱の時代が描かれる。遊園地内における大きな回転から(どさくさに紛れて『2001年宇宙の旅』の宇宙ステーションの回転を挿入する遊びに鋭いユーモアがある)、男女のイチャイチャ追いかけっこを『アンダーグラウンド』のオープニング曲における「タタタタ、タタタタ」のリズムで綴り、やがて、男女は抱擁しながら転げ落ちる小さな回転へと収斂していく。

そして、この手の映画のクリシェとして、カップルの熱い日々を破壊させ、オデュッセイア的冒険が始まる。ハッピーエンドととも取れる二人の愛の修復を描き、それを別の形で再度破壊する。『サリヴァンの旅』的2段構えの冒険譚となっているのだ。『未来世紀ブラジル』を始め、SF映画におけるディストピアな事務作業描写によって、冷え切った人生を描いていく。そこから、また壮絶な日々が開幕し、戦争映画のフッテージを用いてクライマックスを盛り上げる。そして、そのまま異次元の彼方を描写し、『マトリックス』における電話のシーンを反復させることで虚実曖昧模糊な空気にまいて映画は終わる。

オデュッセイア的天国から地獄へ行き、また天国へと上り詰める話は、『ユリシーズ』のように一般人の1日に微分可能な程、普遍的なものを持っている。人間は誰しも、天国と地獄を行き来し、それがある種の円環構造を形成しているのだが、『ファイナル・カット』は映画におけるその円環構造の底を掬い上げた。男一人、女一人いれば映画はできる。『オデュッセイア』をフレームワークとして使えば、フッテージだけでも物語ることは可能だ。例え、引用元を知らなくても物語としての《線》を追うことができることをパールフィ・ジョルジュは証明したのだ。

『THE GREEN FOG』の場合、元ネタを知らないと、少なくても『めまい』を知らないと物語が追い辛い問題点があった。それを克服している点、『ファイナル・カット』の方が1枚上手であり、それ故、2010年代を彩る記念碑になり得る風格を備えていました。

P.S.余談だが、先日映画呑みで『THE GREEN FOG』評でゴダール的引用の仕方は時代遅れになるかもしれないという話をしたら、「カチンときた」と怒られました。ゴダール映画批評は、シネフィル界隈だと危険なネタっぽいので気をつけた方が良さそうです。

【ネタバレ】『ファイナル・カット』引用作品一覧

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