【釜山国際映画祭・ネタバレ】『CLIMAX クライマックス』ギャスパー・ノエがサングリアに隠した謎を読み解く

『CLIMAX』ギャスパー・ノエがサングリアに隠した謎を読み解く

ギャスパー・ノエの新作『CLIMAX』はカンヌ国際映画祭で、賛否両論真っ二つに別れた。海外のレビューを読むと、全編長回しで、狂乱のダンスシーンに翻弄され、肝心なギャスパー・ノエが本作に隠したものを解読できていないような気がした。今回、ギャスパー・ノエはジャン=リュック・ゴダールに近い《映画》の脱構築の傑作となっている。ってことで、この記事ではギャスパー・ノエの暗号を読み解いていくことにする。本作はネタバレ記事です。現時点で日本公開未定となっているが、恐らく来年公開されると思うので、未見の方は公開されるまで本記事を読まないでください。

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ギャスパー・ノエ論

まず、本作について語る前に、ギャスパー・ノエの作家性について語る必要がある。ギャスパー・ノエといえば、『アレックス』や『エンター・ザ・ボイド』、『LOVE 3D』と強烈な色彩、サイケデリックな色彩の下で超暴力を描く作風で有名だ。あのニコラス・ウィンディング・レフン監督が、『ドライヴ』を制作する際に彼に相談したぐらい、他の監督が惚れるような強烈な作家性を持つ。しかし、このヴィジュアル的特徴とは別に、もう一つの側面を持っている。それは、ビヨンド・ポスト・ヌーヴェルヴァーグだ。ゴダールやトリュフォー、ロメールが暴れたヌーヴェルヴァーグ全盛期の後、ジャン・ユスターシュ、フィリップ・ガレル、モーリス・ピアラ、ジャック・ロジエといった新感覚のフランス映画が登場した。会話中心のリアリズムで語る一方、ジャン・ユスターシュやフィリップ・ガレルは人の内なる世界を陰惨極めたモノクロで描く。モーリス・ピアラは極端な省略でもってドライに物語る。ジャック・ロジエは、物語る気がない程の無軌道な旅を描き続ける。ヌーヴェルヴァーグ作家がやらなかったことを、重箱の隅をつつくように見つけ出し、それを自らの作家性に取り込んだ。これがポスト・ヌーヴェルヴァーグだ。
それに対して、ギャスパー・ノエは彼らの先を目指す。クレール・ドゥニに近い新時代の映像技法を探求する作家だと言える。個人的にビヨンド・ポスト・ヌーヴェルヴァーグと勝手に定義している。
ギャスパー・ノエは前作『LOVE 3D』で、大スクリーンに向かって男のマグナムをぶっ放すシーンを描く。これは、単なる前衛的なポルノ表現に留まることはない。1903年にエドウィン・S・ポーター監督が『大列車強盗』でスクリーンに向かって銃をぶっ放すシーンを描いている。このシーンとの対比でもって映画史を総括して見せたのだ。100年後の映画は3Dで、男のマグナムが観客に発砲される。映画という概念を破壊し、新しい映画史の1ページをギャスパー・ノエは擲り書いてみせたのだ。

ギャスパー・ノエのサンプリングから観る映画史論

正直、前作『LOVE 3D』は、出オチ感が強い作品だった。《映画》の脱構築としては、ゴダールの足元に及ばないものがあった。しかしながら、本作の脱構築は非常に高度で目を見張るものがある。本作、最大の成功はヒップホップの《サンプリング》と映画を結びつけたことにある。よく、ブンブンは映画のオマージュに関して、「ゴダールは論文としての引用をし、タランティーノはヒップホップのように引用する」と語る。ゴダールは、その引用元が複雑怪奇で、その引用から繰り出される映像が高尚難解を極める。一方、タランティーノは様々な映画からの引用がポップで見やすいものものとなっており、気軽に楽しむことができる。

本作は、そもそもオマージュとはヒップホップにおけるサンプリングに過ぎないと、ブンブンの理論をあっさりと覆す。トーマ・バンガルテルやダフト・パンク、エイフェックス・ツインが織りなす音楽、フレンチ・ディスコの再構築が映画内でのサンプリングと融合し、別次元のものを生み出す。従来の映像技法を解体して魅せることで、観客に観たことがない景色と邂逅させる。

タイトル、スタッフロール、エンディング

何と言っても、この『CLIMAX』において、タイトルロールもエンドクレジットも時系列バラバラだ。いきなり、映画のラストから始まり、エンドロールが流れる。そして、まるでDVDの特典映像のように10分近く出演者の感想が垂れ流される。

If could dance what would you do?(ダンスができるのなら、何をしますか?)
Uh…suicide…(うーん、自殺かな)

Selon plaisir quoi danser pour toi_(喜びに対し、あなたのために何を踊るべきか?)
C’est tout pour moi.(私にとっての全てよ)

それぞれ、この廃墟での合宿に対する意気込みが淡々と語られる。

そして、長い長いインタビューが終わると、『グレイテスト・ショーマン』のように、観客の高揚感を煽るリズムがビートを刻み、長回しのダンスシーンが始まる。それぞれのキャラクターの得意技をしっかり魅せることでキャラクター紹介していくのだ。

そして、30分ぐらいストーリーが進んだところで、『エンター・ザ・ボイド』の冒頭のようにサイケデリックなスタッフロールが始まる。そしてエンディングには、一切エンドクレジットが流れることなく、『CLIMAX』という文字が画面に打ち出されて映画が終わってしまう。映画とは、どこにクレジットを入れようが、タイトルを入れようが、エンドロールを入れようが関係ないということをギャスパー・ノエは豪語している。それが見事に説得力を持っているのだ。

アクションと会話の抽出

また、ギャスパー・ノエは非常に歪な物語構造を本作に持ち込んだ。『CLIMAX』は徹底して、アクションとアクションを繋ぐ会話を分離させている。それこそ、冒頭インタビューもそうだが、ダンスはダンス、会話は会話と数十分起きに演出を切り替えているのだ。だから、前半のダンスシーンが終わると、役者たちのオフの会話が10分以上描写される。執拗なカット割で、ダンサーがセックスについて語るだけ。劇場からはため息がところどころ漏れているぐらいに退屈だ。しかし、旨味だけを抽出した部分と、残りカスだけを抽出した部分を極端に分離して描くことで、終盤のカタルシスがとてつもなく巨大なものとなって観客に降り注ぐのだ。このつまらなさにしっかりとした意味があるのです。

バークリーショットに対する辛辣な皮肉

映画の中盤、カメラは天井から地面を見つめたショットで延々とダンスを見せていく。この撮影技法はバークリーショットと言われ、バズビー・バークリーが『四十二番街』で演出したことで有名になった技術。安直なミュージカルシーンほど使われる演出だ。しかし、そんな使い古されたバークリーショットにまだまだ隠された使い方があったことをギャスパー・ノエは教えてくれる。まず、バークリーショットは、ダンサーが織りなす円から少し離れた地点を映す。そして、2Dの側面が強いバークリーショットに、「飛び跳ねる」というアクションを加えることで、映像に立体感を持たせるのだ。圧倒的ユニークさ。受け売りでバークリーショット使っているんじゃねーよ!という彼の怒号が劇場に響き渡ります。
また、ドギツイ赤の中で踊るというシーンは明らかに『ワイルド・スタイル』のオマージュなのだが、それをバークリーショットで撮ることで、ギャスパー・ノエの味というものを最大限引き出している。

扉の映しから読み取れるブニュエルの面影

前半40分、ユニークな長回しカットが楽しめる。部屋の中のダンサーが次々と緑の扉の方へ向かうのだが、扉を明ける直前で戻ってきてしまう。観客は、扉の奥に何があるのか気になるのだが、なかなか映し出されない。そして、ようやく緑の扉を明けるのだが、外には出られず、長い廊下が続いている。本作の登場人物は、建物から出られないのだが、「外に出る」という概念を失ったかのように部屋に留まり、どんどんおかしくなっていく…

これは、ルイス・ブニュエルの『皆殺しの天使』に非常によく似た演出だ。『皆殺しの天使』は、ブルジョワジーが建物から《出る》という概念を奪われて、何が何だか分からぬまま疲弊していく様子が描かれたシュールな作品だ。しかしながら、そこからはブルジョワという階級に縛られ、そこから出られなくなった人々の痛々しさが見え隠れする。ウディ・アレンの『ブルー・ジャスミン』を抽象的、象徴的にした作品と捉えることができる。

本作では、ドラッグの世界についてこの技法を用いて表現している。ドラッグに毒されると、正常な世界に戻りたくても戻れない。扉はすぐそこにあるのに、謎の引力が部屋の内部に引き戻させる。丁度、悪夢を見ている時、我々がその悪夢の中での行動をコントロールできないように、指を加えて自分が操り糸のように動かされる状態を見守るしかない様子に近い。これを『皆殺しの天使』の手法で描いてみせたのだ。テーマ的には、『レクイエム・フォー・ドリームス』や古くはニコラス・レイの『ビガー・ザン・ライフ 黒の報酬』で描かれていたことなのだが、ちょっとした足し算で、見たこともないような世界を創り出す。これぞギャスパー・ノエ最大の魅力であると痛感させられるシークエンスであった。

天地がひっくり返る

終盤10分以上、この映画は天地がひっくり返る。遂に、部屋にいるダンサーが全員おかしくなり、床をのたうちまわる。しかし、「ダンスは止めない!」と言わんばかりに踊り続けようとする。それを、天地がひっくり返った画面で描くのだ。地面はスクリーン上部にある。暗闇の中、適度に光る仄暗い鮮血の光を頼りに観客は、状況を把握しようとするのだが、何が何だか分からない。気持ち悪くなってくる。現に、海外の配給会社の人であろうか、関係者パスをぶら下げている人が次々と途中退場していく。如何にも吐きそうな姿勢で。また、隣に座っていた大きなポップコーンを抱えていた青年の指は完全にフリーズしている。ポップコーンは余りに余っている。

そして、遂には字幕ですら上下逆で表示され、全く読むことができない。下に表示される英語字幕ですら上下が反転しているのだ。余りにパンクでぶっ飛んだシーンに完全昇天しました。ブンブン、ギャスパー・ノエの《サングリアSangría》を一気飲みさせられ、ハイになりすぎ、灰の血《サン グリSang gris》に溺れてしまいました。

こんな演出、あのゴダールですらやったことがない。以前から、ゴダールの猿真似のように映画内で文字アートを魅せていたギャスパー・ノエであったが、遂にゴダールとは別次元の文字アートを創り上げた。そして、映画というものを徹底的に解体して新たな世界を創り出してしまったのだ。

最後に…

本作は、見たこともないようなスタイリッシュなダンス。そして興奮しかない演出の連続だ。ある意味中身なんかないし、批判しようと思えばいくらでもできる作品であるが、ブンブンは今年この映画と出会えたことを誇りに思うぐらい好きだ。従来の、見掛け倒しなギャスパー・ノエから、しっかり《映画》とは何かを洞察し再構築した深遠なる奥深さを持ったギャスパー・ノエへと進化していた。って訳で、今年のブンブンシネマランキング当確案件です。日本公開した時には、また観に行きたいし、絶叫上映なんかがあれば、地を這ってでも観に行きたい。とっても素敵な作品でした。

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