【酷評】『散り椿』木村大作よ、この醜態どうした??

散り椿(2018)

監督:木村大作
出演:岡田准一、西島秀俊、黒木華、池松壮亮、麻生久美子etc

評価:15点

鑑賞10分前に、ブンブンは本作に対する期待が0になり、不安が全身を包んだ。ブンブンは数ヶ月勘違いしていたのだ。今回紹介する『散り椿』の脚本家・小泉堯史を『ちはやふる』シリーズの小泉徳宏だと思い込んでいたのだ。10分前にその事実に気づき、「チケット購入前に気づいていたら、『DTC 湯けむり純情篇 from HiGH&LOW』にしていたのになぁ」と思った次第です。とは言っても、小泉堯史は2000年代の時代劇の流れを決定づけた『雨あがる』の監督である。2000年代やたらと作られた、感情を溜めて溜めて、最後に凄まじい殺陣でもってカタルシスをもたらす時代劇の型が確立された。その第一人者が、平成の最後に、最強の撮影監督・木村大作と組んでいるのだからそこそこに面白いはずだと信じて観た。…それがだ…今年ワースト級に酷い作品でした。重く硬いセリフ、木村大作=美しい映像という先入観に騙されるなかれ!ってことで3つの観点で語っていく。

『散り椿』あらすじ

葉室麟の同名小説を映画化。藩の不正を訴え、村八分をくらい、妻とともに藩を去り隠居暮らしをしていた瓜生新兵衛。妻の死を受け、8年ぶりに藩に戻ってきて、藩民はざわつく。瓜生新兵衛は妻から、「私の代わりに散り椿を見て欲しい」というお願いと、もう一つある頼みを引き受け藩に滞在することになる。そんな彼を何者かが暗殺しようと企てる…

ダメダメポイント1:どうした木村大作。画が汚いぞ!

木村大作というと、「映像が綺麗」ということで有名だが、それは先入観であると考えている。実は木村大作の画は、リアリズムを意識した汚い画が多いのだ。特に雪描写に関して、それは顕著に現れる。『八甲田山』『駅 STATION』『夜叉』『鉄道員(ぽっぽや)』等の作品を観ると、どれも綺麗とは言い難い景色が映し出される。白銀、純白といった言葉とは程遠く、灰白という言葉が相応しいくらいグレーの色彩が見え隠れする。それでも、観る者の心に「美しい」という感情を残すのは、その汚さの中に見える微かな美を強調するからだ。『夜叉』においてビートたけし扮するやくざ者がナイフを持って走り回る。カメラがふつふつと降る雪の中グアングアンと揺れ動く、そしてはたとカメラは止まる。まさしく、本作のクライマックスにおける岡田准一と西島秀俊の殺陣に匹敵する動と静の鋭い間の切り返しが展開される。この動きの鋭さから美が滲み出て、観客の心を包むのだ。この真逆の2要素の完璧なコントロールから美を演出する姿はテオ・アンゲロプロスのスタイルにも似ている。

さて、今回の彼の仕事はどうだったか?年老いて、技術鍛錬を怠ったのか?あるいは自分の才能に自惚れたのか、汚の中の美は全く見えてこない。つまり、この作品には醜さしかなかったのです。不安は冒頭から私を襲う。豪雪の中の静かな斬り合いが展開されるのだが、豪雪がまるで霧のように視界を遮る。見辛いのだ。本作はオールロケで撮ったとリアリズムを強調していたのだが、この豪雪は八甲田山レベル。ニュースだと警報が出るレベルだ。あまりに誇張された雪描写は、むしろ胡散臭さを生む。そして、時代劇というのは殺陣をいかに魅せるかが重要であり、本作もそれが肝になっている作品故、開始早々最悪な殺陣を魅せられた気分になる。雲行きが非常に怪しくなる。その勘は見事的中する。劇中の殺陣シーンの多くが、驟雨、豪雨の中の斬り合いになっている。何が起こっているのか非常に分かりづらいのだ。

FilmarksやTwitterでは「綺麗な映像だった」というが、果たして本当にそうだろうか?数日後、数年後、本作で観た景色を思い出せるだろうか?私はそうは思わない。肝心な散り椿も造花に見えてしまう、本作で描かれる絶景ぐらい他の映画で簡単に観ることができる。『剣岳』のように、木村大作映画でしか観られないような美はそこにはありませんでした。

ダメダメポイント2:セリフと回想にに頼りすぎ

本作は、一見硬いセリフ、重いセリフで誤魔化されているが、典型的な日本映画の悪い癖が見える。それは語りすぎだということ。登場人物が今どういう気持ちなのか、複雑な政治闘争がどういう局面を迎えているのかを全てセリフでA to Z語ります。また、執拗に回想場面を挿入する。それも彩度をコントロールし、あからさまに「ここは回想シーンですよ」とアピールした上で、回想を描く。手紙ですら、いちいち内容を読み上げるのだ。手紙を執拗に読み上げる演出技法の正当性は、寺本郁夫がリュミエールに寄せたフランソワ・トリュフォー論《トリュフォー-映画の窓、窓の映画『突然炎のごとく』と『恋のエチュード』をめぐって》で次のように指摘されている。

(手紙を読み上げるシーンの執拗さについて)しかしその執拗さとは、手紙と声とが時空の収縮や拡散を作り出して行く過程を、観る者に経験することを可能にする。

※季刊リュミエール14 1988-冬 p98 上段14~16行目より引用

本作でも、瓜生篠の生前に心にしまっていた宝箱を登場人物が紐解いていく様子を疑似体験させる為に《手紙を読む》という行為は機能している。しかしながら、この演出は諸刃の剣でもある。空間だけで、登場人物の心情を伝えるということに対する自身のなさが強調されかねないのだ。そして、その自身のなさは、音楽によって確信に変わる。

ダメダメポイント3:ゴッドファーザーの二番煎じはやめてくれい!

予告編でも御察しの通り、加古隆の音楽はあからさまに『ゴッドファーザー』の二番煎じだ。『ゴッドファーザー』も過去と血に囚われた家族の物語だ。あまりにあからさまなオマージュは、映画を陳腐にしてしまう。そしてこともあろうか、「このテーマ曲は『散り椿』の顔だよ」と言いたげに、なんどもなんども流れる。こことぞいうところで必ず流れるのだ。これにより、本作はやっすい家族の物語へと失墜してしまった。リアリズムを追求するのであれば、音楽は徹底的に排除し、1、2箇所に留めた方が物語に鋭さが増す。それ以前に、作品に拘りがあるのであれば『ゴッドファーザー』の二番煎じはやめてほしかった。

最後に…

Filmarksでは然程、ブチギレている人は多くなかったのだが、2000年代から積み上げてきた時代劇の新しい型、平成の終わりに有終の美を飾るであろう本作はトンデモナイ汚点を残した。これには流石に怒ってもいいのではないだろうか。もちろん、本作終盤の殺陣はカッコイイし、岡田准一と西島秀俊の殺陣捌きは素敵だった。しかし、木村大作にしてはあまりに勿体無い映画でした。

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