【ネタバレ解説】『マザー!』日本の配給会社が公開を諦めた!アロノフスキーが描く”アレ”

マザー(2017)
MOTHER!(2017)

監督:ダーレン・アロノフスキー
出演:ジェニファー・ローレンス、ハビエル・バルデム、
エド・ハリスetc

評価:90点

時は年末、実家にあるブルーレイが届いた。その名も『マザー!』。『π』、『レクイエム・フォードリームス』、『ブラック・スワン』の鬼才ダーレン・アロノフスキーがベネチア国際映画祭コンペティションに出品するものの、絶賛とブーイングで会場を混沌の渦に包んだ作品。あまりの鬼畜さ故に、東和ピクチャーズが米パラマウント・ピクチャーズから日本公開を止められ、日本公開が中止になってしまった問題作だ。

日本公開は、未体験ゾーンの映画たちやシネマカリテでの特集上映以外絶望的となってしまったので、ブルーレイを買って観ました。そしたら、これが大傑作。2017年チェ・ブンブンシネマランキング新作洋画部門ベスト10位に選ぶほど凄まじい作品でした。

ただ、問題がある。事前に映画友達から、「この映画は観た人としか話せない。冒頭5分でネタバレだ。」と言われていたのだが、まさにその通りで、この映画をネタバレなしで語るのは非常に難しい。それも他の作品を例にした途端ネタバレだったりするので、紹介不可能な作品だったのだ。実際に後述するが、町山智浩はラジオで紹介した際に、通常ならあの作品を例に挙げるところを、日本のマイナー映画を例に使うほど慎重に解説していた。

ってことで、この記事は観た人限定のネタバレ記事にします。悪い事は言わないので、これから観る予定の人は、DVDfantasiumやAmazonで輸入して鑑賞後、この記事を読んで下さい。

『マザー!』あらすじ

ある円満な夫婦の元に、医者と名乗る男がやってくる。何故か、夫は彼を自宅に泊めることにする。不安に思う妻をよそに、次々と会ったこともなければ知り合いですらない者が訪問してきて、家を乗っ取り始める…

町山さんが『KOTOKO』を挙げた理由

町山さんがたまむすびで、アロノフスキー監督は塚本晋也監督の『KOTOKO』を真似したのではと言及していた。確かに、『KOTOKO』と本作は非常に似ている。子育てで苦しむ母が観る幻覚を映像化した点で。しかしながら、それを言うのであれば、デヴィッド・リンチの『イレイザーヘッド』を通常だったら挙げるはずであろう。現にWOWOW映画塾で解説したことがあるのだから。また、邦画で似た様な話なら、『淵に立つ

』やその原型である『歓待

』なんかも挙げられた筈である。

しかし、あえて塚本晋也の、それも映画ファン同士の会話でもなかなか出てこない『KOTOKO』を例に挙げたのか?

それは町山さんなりのネタバレ回避、リスナーへの思いやりと言える。本作はジェニファー・ローレンスが演じる役が、「母親」であることを知らない状態で観た方が100倍楽しめる仕組みになっているのだ。何も知らない状況で観ると後半1時間の展開で判明するジェニファー・ローレンスの正体と、そのテーマに背すじがゾワっと震えるので、既に散々解説され「子育ての苦悩映画」として映画ファンの間で知れ渡っている『イレイザーヘッド』や物語の骨格が同じ深田晃司監督作品を例に挙げなかったのだ。これは素晴らしい。

アロノフスキーが描く『イレイザーヘッド』

本作は、女性が子供を産み、そして育てる苦悩を一軒の家の中だけで描いた作品だ。非常にメタファーと辛辣な皮肉に包まれた作品と言える。冒頭、ジェニファー・ローレンス扮する妻は、家をペンキで塗る。一筋のペンキ跡に何かを感じ、手を伸ばすと、胎児が浮かび上がってきて、ハッと驚く。同様に、床が血だらけの性器の様な形をしていたり、天井からたらーと厭な感じで赤色の何かが滴る。これらの描写は、これから母になる主人公の不安を象徴したシーンである。自分の身体から、もう一人の人間が生まれてくることの不気味さが映画全体の不穏な空気によって演出されているのだ。

これはまさに『イレイザーヘッド』そのものと言える。もっといえば、『イレイザーヘッド』の元ネタともなったロマン・ポランスキーの『反撥』に通じるものがある。もっとも、女性の精神崩壊、家庭の崩壊を文字通り家の破壊でもって表現するシーンは『反撥』に全く同じ描写があるので、アロノフスキー監督はかなり意識したのではと考えられる。

ハビエル・バルデム扮する夫の役割

そして、本作が特徴的なところとしてハビエル・バルデム扮する夫の役割にある。彼の行動は非常にデタラメで、謎の訪問者に対して、非常に寛容で次々と家に招く。妻には、時折「お前のことを大事にしているから」と言いながらも、家の外でサイン会なんか始めたりして全然妻のことを気にかけていない。

これはまさに子育てにおける夫を風刺する役割である。近年、イクメンという言葉があるが、実際に夫は上部だけの家事、それこそ子供と遊ぶぐらいしかしていなかったりする。本作では、一見妻想いに見える夫だが、心の奥まで妻の気持ちを考えてあげることができず、妻が孤独に押しつぶされる様子を容赦無く描いているのだ。

象徴的なシーンとして、夫が売れっ子作家になり家の外でサイン会を開く場面を挙げよう。よくよく見ると、妻は家から一歩も外に出ていないことがわかる。これは「家」を妻の気持ちに例え、夫が遠い存在になってしまったことを暗示していると言える。そして、妻が出産間際になり、夫がようやく群衆を追い出して、家の奥の奥の部屋で妻の出産を見守る場面を描くことで、妻と夫の心の関係を対比させている。

後半の戦場シーンは『千年女優』へのオマージュか?

『ブラック・スワン』で今敏監督作『パーフェクト・ブルー』からアイデアを持ってきたのではと囁かれた、ダーレン・アロノフスキー監督ですが、今回の『マザー!』では同監督作の『千年女優』からネタを持ってきていると思われる部分がある。

それは、物語終盤。大勢の人に乗っ取られた家が戦場のようになっていく場面。ゾンビ映画から戦争映画へと映画ジャンルの垣根を超えて、ジェニファー・ローレンスが夫を探すというシーンなのだが、これが明らかに『千年女優』のプロットと一致しているのだ。『千年女優』とは大女優・藤原千代子がインタビューを受けていくうちに、現実と虚構の区別がつかなくなり、映画と映画の垣根を飛び越えてある人を探しに行くという内容。確かに、『千年女優』で登場する劇中映画の内容と『マザー!』で登場する映画ジャンルは異なるのですが、時を超えて行くような感覚は似たものを感じた。

出産後の食人シーン/石の意味

本作は、シネフィルなら『イレイザーヘッド』のような話として途中から油断をして観ることでしょう。私がまさにその一人で、物語の方程式に気づいてしまって以降は、結構油断していました。そして、どうせ出産シーンでTHE ENDなんだろうと思っていた。なんたって、怒涛の戦場シーンがクライマックス周辺にあったのだから。予想通り出産シーンが終盤に設けられていた。しかし、そこからさらに20分映画は続いたのだ。なんと、出産した自分の子を夫に奪われ、そのまま群衆の元に。そして、ジェニファー・ローレンスが「私の赤ちゃんはどこ?」と言いながらようやくたどり着いた先は、群衆が老若男女皆でその赤ちゃんを食べているところだったのだ。これは驚いた。思わずウェーーーーと声をあげてしまった。そして、ブチギレたジェニファー・ローレンスがその群衆を片っ端から鋭利なもので八つ裂きにしていくのだが、仕舞いには群衆に取り囲まれて殴られまくる。

このシーンは一体なんなのか?私は母に対する社会の目を皮肉った描写だと思った。それもアメリカより、日本社会の育児事情を皮肉っているような気がしてならなかった(無論、そんなことはアロノフスキー監督考えてなさそうだが)。赤ちゃんは誰しもが可愛いと思う。SNSやテレビでは連日、なんらかの赤ちゃんの写真や動画が映し出され、人々は心を落ち着ける。しかしながら、電車や公共施設でベビーカーで移動する母親に対し、社会は「迷惑だ」と煙たがる。赤ちゃんが泣こうものなら、うるせえと蔑視の目線を送る。まさに、赤ちゃんを消費の対象とし、母親をストレスの対象としてしまう現代を風刺しているのではないだろうか。

そう考えると、ハビエル・バルデム扮する夫が、母から生み出された石を大切そうに飾るところは、子育てを表面上のファッションとして自慢している男を象徴していると言えよう。

陰鬱すぎる円環構造

流石は鬱映画監督のダーレン・アロノフスキー監督作品だけあって、エンディングも強烈であった。ジェニファー・ローレンスが自爆することで全てを終わらせようとしたのだが、映画は『ファニー・ゲーム』さながら、時間を巻き戻すことで物語を永遠のものとした。

この円環構造を物語に組み込むことで、人類始まって数十年、いや数百年もとい数千年にかけて「母」は人々に搾取されてきたことを語り切ることに成功した。まさに舞台は一軒の家なのに、そこから壮大な物語が見える。ミクロコスモスをダーレン・アロノフスキー監督は創り出したといえよう。

『ノア 約束の舟』との比較

アロノフスキー監督の前作『ノア 約束の舟』と比較すると面白いことが浮かび上がってくる。それは「神」の扱いだ。『ノア 約束の舟』では、ノアという名の「神」を偏屈で厭な人物として描いていた。人類を見捨てる存在として描いていたのだ。

一方、『マザー!』では母親という名の「神」は徹底的に人間に搾取され、ボコボコにされる姿を描いてきた。なので、『ノア 約束の舟』を観た後に本作を観ると対になっていることがわかるでしょう。

よくよく考えたら、ダーレン・アロノフスキー監督作は初期作の『π』からどこからしら神話が見え隠れしてきた。人間の欲望や社会的役割を劇中に「神」なる存在を出現させることで人間と神との関係を描いていたのではないだろうか。

最後に…

本作は間違いなく万人受けするような作品ではない。東和ピクチャーズが日本公開を中止にしたのも納得と言える。しかし、本作は他人を思いやれなくなっている日本人、特に日本男性にこそ観て欲しい作品である。子育てをする母親がいかに社会からの非難に耐えて生きているのかが痛いほど分かるので、是非とも日本公開して欲しい。それこそ、内容的に未体験ゾーンの映画たち案件なので、来年ヒューマントラストシネマ渋谷で上映することを期待します。

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