【ネタバレ解説】『君の名前で僕を呼んで』忍れど 死のブレード乱れ 苦き淡

君の名前で僕を呼んで(2017)
CALL ME BY YOUR NAME(2017)

監督:ルカ・グァダニーノ
出演:アーミー・ハマー、ティモシー・シャラメ、
マイケル・スタールバーグetc

評価:5億点

第90回アカデミー賞でジェームズ・アイヴォリーが史上最高齢で脚色賞を受賞した作品『君の名前で僕を呼んで』が公開された。東京都内の映画館は満席が相次ぎ、観た者が次々と絶賛している話題作だ。

↑パオロ・ソレンティーノ『追憶のローマ

』『きっとここが帰る場所

』『グランドフィナーレ

』の予告編を並べるとかなり雰囲気が似ている。

ブンブンもあまりに甘美過ぎる予告編を観た時から、「これは絶対にベストテンに入る。パオロ・ソレンティーノの薫りがする」とワクワクしていたのだが、これが想像の1000倍傑作で、あまりの傑作さに「Ne me tue pas…(私を殺さないで)」と思わずにはいられなかった。実際に、通常鑑賞後、帰りの電車で簡単な感想の感想をFilmarksにアップするのだが、精神が壊れてしまった為書けなかった。それだけ人生を狂わせてしまったのだ、この『君の名前で僕を呼んで』は。そんな本作についてじっくり解説&考察をしていきます。(ネタバレ注意)

『君の名前で僕を呼んで』あらすじ

1980年代。イタリアのとある町。大学教授である父の発掘調査の為に、17歳のエリオはそこに滞在し、読書、プール遊び、夜はダンスパーティに耽っていた。そんなある日、父の研究の手伝いに大学院生オリヴァーが別荘にやってくる。エリオはオリヴァーに何かを感じ、またオリヴァーはそれに応えていく…そして…

忍れど 死のブレード乱れ 苦き淡

しのぶれど 色に出でにけり わが恋(こひ)は ものや思ふと 人の問ふまで

と平兼盛の一句が鑑賞後の私の脳裏に恍惚と輝いた。本作は、まさに忍ぶ恋の繊細な揺らめきを、エメラルドのような美しさに閉じ込めた傑作だ。それは、タイトルシーンのピアノの旋律と共に映し出される写真から既に匂わせてくる。そしてエリオ、オリヴァーの行動の一つ一つが完璧で、私の心を徹底的に溶かして身動きを取れなくする。

エリオは、オリヴァーに惹かれる。ただ思春期ゆえの恥ずかしさ、《恋》と《欲》の実態が掴めず悶々とする。彼は両手に《死のブレード》を持っている。それは重い重い大剣だ。下手に振り回したら、オリヴァーとの関係が壊れてしまう。この甘酸っぱい夏の空間が崩壊してしまう。

悩みとは無関係なほどの晴天の裏で、振り回される《死のブレード》。そのスリリングな刃の所作に胸が締め付けられる。プールに入るエリオ、紙に何かを書きとめながらオリヴァーを想いニヤける。しかし、オリヴァーの「何をしているんだい」という言葉で、ハッと平兼盛のように自分の溢れる気持ちに気がつき、ムッと顔を変える。

そんなエリオの甘美過ぎる世界に対し私は一句詠むこととした。

忍れど 死のブレード乱れ 苦き淡

これは『太陽がいっぱい』だ

本作は予告編の時から、『太陽がいっぱい

』に近い自己同一化の愛を描いた作品なのではと思っていたのだが、その通りであった。『太陽がいっぱい』とは、ナポリにやってきた貧しいアメリカ人の青年トムが金持ちのフィリップを連れ戻そうとする中で、フィリップを殺そうとする話。

淀川長治の理論によると、トムはフィリップに憧れを抱き、愛し、彼になろうとしたため殺人を計画した。その証拠に、トムがフィリップの服を着て鏡に映る自分に惚れ惚れとするシーンがある。

本作は、非常にこの『太陽がいっぱい』で薄く描かれる自己同一化の愛を参考にしている。例えば、冒頭オリヴァーに惹かれるエリオは、彼の首にかかるダビデの星のネックレスに注目する。そして、さりげなくエリオもダビデの星のネックレスをし始めるのだ。ユダヤ人でもないのに。これに追随するように、様々なセッションが繰り広げられる。

バッハ、リスト、ブゾーニを並べてみた。バッハは地を踏みしめるような重厚感な音を持つ。リストは、風を切るように駆け抜けていくような音。ブゾーニはリストとは正反対で、大地をバッハの二倍以上深く踏みしめる暴力的な音をもっている。実はこの弾き比べのシーンは、実際にティモシー・シャラメが演奏しています。

エリオはバッハをリストの旋律で軽やかに弾く。オリヴァーは、「それは違うな」と言う。すると今度はブゾーニのような力強い旋律で応える。

そのようなセッションを繰り返すうちにエリオはますますオリヴァーに惹かれ、オリヴァーの服をもらおうと彼にせがみ、終盤の旅行シーンでは、実際にエリオはオリヴァーの服を着て行動する。

また、『太陽がいっぱい』では鏡が効果的に使われていたが、本作は空間を鏡のように演出することで、オリヴァーとエリオのシンクロを表現している。例えば、エリオは、オリヴァーがヘテロセクシャルなのかどうかを確かめる為に、「あの女の子、いい身体しているでしょ」と煽るシーンの後。オリヴァーに怒られ、気まずくなったエリオ。彼はアーチの柱越しにオリヴァーを追いかける。柱と柱の間の空間から見えるオリヴァーの動きと彼はシンクロする。まるで、エリオの将来像が鏡に映し出されているような画。それも深読みせずとも説得力のある画で提示される。

またオリヴァーとエリオは全く同じ動きで別々の部屋に入る場面。カメラはパンし、中の扉が開かれ二人の体が扉の仕切りを境に映し出される。オリヴァーは若き自分にエリオを重ね、エリオはまた憧れのオリヴァーに自分を重ね愛撫するのだ。

『太陽がいっぱい』の技法を面白い形でアレンジされていく空間に私の心は癒された。

エリオ=オリヴァー=ゲイカップル=エリオの父=原作者

町山智浩の解説によると、本作は原作者であるアンドレ・アシマンの若い頃を反映した内容になっている。しかし、アンドレ・アシマンは同性愛者ではなく、今や妻もいて子どももいる男だ。そして、エリオもオリヴァーもエリオの父も完全にアンドレ・アシマンを反映しており、それがまさしくタイトルの「CALL ME BY YOUR NAME」に繋がっているとのこと。そして劇中で登場するゲイカップルの一人を演じているのがアンドレ・アシマンだとのこと。

これはどういうことか。恐らく、これはエリオの父の目線で自分の恋心の移ろいを描き、誰にも言えない、でもどこかに残しておきたい自分の中の宝石が形成された結果でしょう。

エリオの父は、終盤エリオに「私は全て知っていた。かといって、君をコントロールすることはない。ラッキーだったね。大人になると心は枯れてしまうのだ。」と語る場面がある。これは、老年になったアンドレ・アシマンが結局、自身の本当の愛を認めることができずに別の人生を歩む上で生じた後悔が吐露されていると言えよう。

エンドレス・ポエトリー

』でホドロフスキーが昔両親にやってしまった罪を滅ぼそうと、若き自分に囁くあのシーンと同じ技法が使われている。

エリオは、自分が抱いている愛の形、抑えきれない欲情に自己嫌悪を覚えている。だからこそ、ゲイカップルが別荘に遊びに来た際には、彼らを邪魔する。それは自分のことが嫌いだからだ。そして、オリヴァーに惹かれるのだが、オリヴァーは去り女性と結婚してしまう。オリヴァーは数年後のエリオをも象徴している。結局、自分の心と決別して偽の愛を選んだのだ。

エリオは、ラストの電話のシーン。運命を悟ったかのように、オリヴァーの結婚を予知し、そして認める。しかしながら、一度は認めたものの、その未来が切なく哀しくなる。そして涙を流す。未来の自分の姿を見ているようで辛いのだ。

ただ、何故家族の前で涙を流す必要があったのだろうか?いくら家族に自分の性癖がバレているとは言え、その哀しさは心の奥底にしまっておきたいはずなのではないだろうか?

これはこの話全体を象徴するシーンだ。アンドレ・アシマンは本作を発表しながらも、頑なに自身の同性愛を否定している。だったら何故この作品を世に放ったのか?それは、「誰にも気づいて欲しくないが、誰かには気づいて欲しいこの気持ち」という矛盾が描かれているのだから。直接声高らかに告白するのは、精神が崩壊するぐらいに辛い。でも、自分の心の中だけにしまっておくのはもっと辛い気持ちが全力全開で描写されており、それがルカ・グァダニーノの超絶技巧、神の所作ともいえるアーミー・ハマー、ティモシー・シャラメの動きで完璧に表現されているのだ。

LGBTQ映画と言う違和感

本作は、所謂ゲイ映画だ。LGBTQ映画だ。カテゴリー分けをすればの話だが。しかし、私は簡単に線引きしないで!といいたい。本作は、確かに男同士の愛を描いている作品だ。しかし、先述の通りエリオとオリヴァーとエリオの父親は原作者を反映している。つまり、もしかすると過去の大切な愛の物語は、原作者と女性の間で起きていたのかもしれない。過去にあった失恋。それにより自分が嫌いになり、忘れるようにして違う相手と付き合い、結婚した。自分がずっと嫌いだった。そんな自分を偽ってきた。そんな自分が老年になり、ようやく過去の自分と向き合い、過去を自分を愛するようになった。そういう話と捉えることができるのだ。だから、本作の真の主役はエリオの父といっても過言ではないし、アンドレ・アシマンが自身の同性愛性を否定しているのは本当に同性愛者ではないのかもしれない。

そしてそう考えると、朽ちた像の手でもってオリヴァーがエリオと握手するシーンが強烈なものとなる。エリオは憧れのオリヴァーの真の手とは握手しない。朽ちた手という《偽》と握手をするのだ。そしてエリオは終盤で、彼に恋心を抱く女子と本当の握手をする。理想という残像を追いかけていたエリオは、少女の手を握ることで現実に帰り、オリヴァーと共に妥協、そして偽りの人生を歩むことになったことを示唆しているといえる。予告編でもカッコよく見えたあのシーンがさらに魅力的に映し出されていたのだ。

異性愛が、同性愛が云々の次元ではなく、《愛》に裏切られ、自分を裏切るようになった人が再び自分を認め許すもっと壮大な愛の物語だったのだ。だから、個人的に安易にLGBTQとかゲイといった言葉を本作に介在させたくない。

これは自分の映画だった

これだけなら、まあ5億点はつけないだろう。でも私は5億点をつけた。それは何故か?それは自分の物語にしか見えなかったのだ。一夏の汚れなき晴天下のバカンスで、自分について考え、何も不安や恐怖はないのに、何かに締め付けられるような想いを抱く。まるで手からするりと抜けて地面めがけて落下する宝石を掴もう、掴もうとするように大切な一夏をそのまま心に閉じ込めておこうとする気持ちは、私も経験がある。

そして、恋に落ちそして別れ、数年後に知らせが来る。覚悟はできている。わかっている。恋人が結婚するということに。そして認める。当然の選択だと。でも、心はグシャグシャに壊れどうしようもなくなる。この展開と全く同じことを私は経験している。痛すぎるほど分かる。エリオのどうにも出来ない涙は私も流した。

タイトルシーンから全力で私の精神を壊しに来た本作は、この最後の一撃でもって下半身付随になるくらい私の心を壊した。

だから本作に私は5億点をつけた。

最後に…

本作は間違いなくブルーレイを買うだろう。なんなら、サントラも買うだろう。


もっというならば、今すぐ銀座のラコステに向かい、エリオの着ていた赤いポロシャツを買うだろう。それぐらい私の心を鷲掴みにした傑作中の傑作だ。そこには私の大切にしていた青春の全てが凝縮されている。そして、これ以上にない哀しく美しいラストにこの世の終わりすら感じさせた。

非常に個人的な話故に、簡単に人にはオススメできない。ましてや、ただただLGBTQ映画を観ようとしている人には絶対私は薦めない。でも、本作は間違いなく今年のベストテンに入れる大傑作であった。

P.S.母親と観なくて正解

実は、GWに母親から、「映画観にいこ♪」と言われた。ブンブンは本作を提案したのだが、ゲイ映画は厭だと断られ、結局『パシフィック・リム:アップライジング』を一緒に観に行った。結論から言おう。それで良かった。確かに、『パシフィック・リム:アップライジング』は今年ワースト級の駄作で、本作は今年ベスト級の傑作だ。しかし、ここまで胸が締め付けられる映画はカノジョと観るのも厭だし、ましてや母親となんてもっと厭だ。あまりに辛すぎるからだ。命拾いをしたブンブンでした。

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