【「わたしは、ダニエル・ブレイク」公開記念】「SWEET SIXTEEN」:ケンローチの神話

SWEET SIXTEEN(2002)

sweet

監督:ケン・ローチ
出演:マーティン・コムストン、
ミシェル・クルターetc

評価:70点

昨年度カンヌ国際映画祭で
ケン・ローチ監督が
「わたしは、ダニエル・ブレイク」
にて二度目のパルム・ドールを
受賞した。

3/18よりヒューマントラストシネマ
有楽町他にて公開が決まり、
また、ゼミでも丁度ケン・ローチ
を扱ったので、
今日は「SWEET SIXTEEN」を
紹介するぞ!

「SWEET SIXTEEN」あらすじ

父の罪を背負い長年刑務所で暮らしている
母の出所週週間前。
息子のリアムは、母のために
家を買おうと決断するが…

神話的エピソード

イギリス労働者階級の悲哀を
リアリズムとユーモアで描く、
ケン・ローチ監督作の中で最も
神話的話が本作である。

所謂エディプス・コンプレックス
もののプロットはそのままに、
主人公の青年が離れようと
しても父に近づいていってしまう
哀しさが描かれている。
長年ケン・ローチの
脚本家として活躍してきた
ポール・ラヴァーティー
最高の脚本と言える。

主人公リアムは、
父の犯罪を庇って
刑務所に長年入っている
母親の愛に飢えると同時に、
父に対し恨みを持っている。
そして、母の出所間際に、
なんとかして自分の家を建てて、
母と一緒に暮らそうとするのだが、
ここはイギリスの片田舎な為、
簡単に稼ぐことはできない。
そして、父の麻薬をかっさらって
悪い商売を始める。
ヤクザに目を付けられて、
ヤクザの道へ進み、
友人を裏切り金と家を
手にしていくリアム。
あれよあれよという間に
父親と同じ存在になっていくのだ。
ケン・ローチ映画にしては
非常に重厚なヤクザ映画
として描かれている。

ケンローチのリアリズム

しかもケン・ローチ監督は、
素人俳優を使った即興性を
意識しているので、
後半のある衝撃的な展開は、
カメラが回るまで一切
教えなかったという。

リアム扮するマーティン・
コムストンの生の感情が爆発し、
連鎖的に赤ちゃんまで号泣する
シーンのリアリズムはなかなか
観ることのできない
インパクトを感じ取ることができた。

オペラ曲の意味

劇中で、本作のキャラクターたちが
到底聴くとは思えない、
映画に似つかわしくない
オペラ音楽が流れるが、

あれは「魔笛」の
「夜の女王のアリア」
だ。

「魔笛」のお話しが、まさに
善玉が悪玉に変わっていくモノなので、
より一層神話性見出すため、
効果的に使われていると言えよう。

ラストシーンについて

 さてゼミで母親は何故、
リアムのところではなく夫の家に
帰ったのかという問題が
上がっていたので言及する。
確かにDVらしいシーンはなかった為、
ストックホルム症候群とは考えにくい場面である。
 
私は、しっくり来る居場所
として夫の家を選んだ
のではないだろうかと考えている。
最終的に夫も息子の
リアムも似たもの同士になった。
妻はリアムが幼少期の
頃から刑務所にいたため、
出所してまず必要なのは
自分にしっくりくる居場所だ。
リアムの家という新居は、
どうも落ち着かない。そうなってくると
必然的に夫の家、かつての
思い出が詰まっている
夫の家に身体が向くはずである。

その理屈をリアムは結局
理解できなかった。
待ち受けるのは、文字通り父殺し。
父の家で父を殺すが結局母の
愛を独占することが出来ずに、
人生の行き止まりとも思える
海岸で哀愁に満ちた絶望を
魅せ物語は終わってしまうのである。

ケン・ローチが描く物語は常に、
複雑なイギリス下層階級で
起こっている過酷で凄惨な
状況を教えてくれる。
本作も、母の愛という
もっとも得やすいものすら
手に入れられない凄惨な
状態を反映した良作であった。

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